映画「戦争と女の顔」 だったらこっちだって生きていく
■福岡KBCシネマの「鑑賞記」
福岡KBCシネマは体温を感じるミニシアターだ。いつもスタッフの声が聴こえる。映画に不慣れな観客にていねいに案内する声や場内のモラルを保とうとする几帳面な声。地元の大学から教授を招いて垢ぬけないけど生真面目なトークショーがあったり、ロビーの壁には上映中作品の批評がたくさん張り出されたりしている。
とりわけ好きなのはスタッフが書いている「鑑賞記」である。実に文才あるスタッフさんが映画レビューを書いていて、それがロビーで読むことができる。
「戦争と女の顔」を観た後、ロビーで「鑑賞記」を読んでいた。上映直後だ。戦争が終わっても苦痛から逃れられない主人公の女性たちを思い、ロシアの陰鬱な空のような気分が体に残っていた。
今回の「鑑賞記」は覚悟が違う文章に思えた。このスタッフさんつまり筆者は、文章がとてもうまいのだが、今回はあえて”文章技術”に頼らず、腹の底から汲み上げたものを記したような筆致だった。戦争をはじめる者に対する筆者の怒りが感じられた。映画では泣かなかったが、涙が出るのではないかと思った。
■オレの中の憎悪
筆者は原作「戦争は女の顔をしていない」の作者アレクシェーヴィチの言葉も文中で引用していた。
”道はただ⼀つ。⼈間を愛すること。愛をもって理解しようとすること。”
この部分を目にしたときなんとも言えない感情が襲ってきた。
なんて頼りないんだ。
それか。
結局それか。
またそれか。
500人の戦争経験女性から聞き取りをした作者アレクシェーヴィチ。ノーベル文学賞を受賞した作者アレクシェーヴィチの言葉。怒りに満ちた「鑑賞記」に引用された言葉。
人間愛と共感。
そんな頼りなく温かで柔らかなもので戦争は防げるのだろうか。ソ連は第二次大戦で2700万人の犠牲者を出している。反省も英知も良心もあるだろうが、しかし現在の彼の国のあり様はこうだ。日本だって正義の戦争だか、自衛の戦争だか知らないが、武力行使をしやすい状況を進めている。
誰かがオレの背中を押した。オレの後ろでスマホを構えて「わたしは最悪。」のポスターを撮ることに夢中な女性がいる。彼女は彼女のリュックがオレの背中にあたったことに気づかない。オレは一瞬でイラつき、憎悪した。
もう一度「鑑賞記」に目を落とした。人間愛と共感。映画を観て、この文章を読んでいたオレは、リュックがあたっただけで憎悪の感情が噴出した。なんでと言われてもわからない。憎悪が反射的に生じるのだ。人間は元来優しい動物ではない。生き延びて、快楽して、人より多く得ることを求める動物ではないか。人間愛と共感なんてオレの中にあるのだろうか。あってもほんのひととき、映画を見ている2時間程度しか持たないのではないのか。
「鑑賞記」に申し訳ない気分になる。なんか資格がないなと。なんの資格かわからないけど、わかったような気分で「鑑賞記」を読む資格だろうか。
■戦争はなくならないという前提で
オレは本当は気づいているのかもしれない。この素晴らしい映画を観て心の底から揺さぶられても、戦争はなくならないと確信していることを。どうしたらいいのかわからない。戦争をいくら憎んでも、結果としてここ最近も含め戦争はいつも起きている。戦争がなくならない事例と実績が多すぎる。選挙に行けば戦争はなくなるのか。デモでもやれというのか。プラカードを書いて歩いて、通行人から白眼視されれば戦争は防げるのか。戦争は人類の本能行為ではないのか。殺人事件は起きてほしくはないが世界人口80億人がこれから永久に誰ひとり殺人を犯さないというのは現実的ではないように、国家間の諍いや為政者の戦争判断がなくなると言い切れるほど人類はのん気な夢を見られない。
あきらめないよ、でも。
あきらめるのは死ぬ時でも遅くないから。たぶんダメじゃないかと思っていても、別にあきらめなくてもいいんだ。ダメだとわかっていながらあきらめないのはおかしいじゃないかと言われたとしても、そんなの関係ない。それはオレの自由だ。辻褄があってないじゃないかといわれても、そんなもんじゃないですかねぇと答えるしかない。
ディテールを知ることだ。戦争のディテールを。国家間の理屈ではなく、戦争でひとりひとりの身に何が起きるかの具体的詳細を映画を通じて知ろうと思う。オレが戦争と対峙するときの基準はひとりひとりのディテールだ。腕が切断され、足が切断され、餓死し、ウジ虫が湧き、人を殺すこと。それらを戦争に対してどういう態度をとるかの基準にしようと思う。
■それならオナニーする
「戦争と女の顔」でのディテールはこうだ。戦後もPTSDに見舞われしばしば発作が起き、それが原因で子どもを圧死させた。戦場から帰還しながらも身体の不具合に絶望して死を選んだ。戦争での負傷が原因で子どもを産めない体になった。そして別の女性に頼んで私のために子ども産んでくれと懇願した。ベッドには3人。頼んだ女と頼まれた女と腰を振る男。戦争に行った女が、行かなかった女から「戦地妻だろ」と言われた。青春時代にドレスを着られず、帰還してからドレスを着て歓喜して泣き崩れた。
オレは戦争を理念で語らない。理念ではなく、流れる血で考える。戦争でひとりの人間がどうなるのか。いや、オレとオレの大事な人がどうなるのかだけイメージする。それで判断する。国のために?悪いけど死なないよ。住民税は払っても、死んだりしないよ。戦場に行くくらいならオナニーするよ。戦場に行くくらいなら別の国に行くよ。行くところもないならオナニーするよ。それもダメなら自分で死ぬよ。仲間外れでもいいよ。もともとなんか漠然と疎外感あるし、愛国者じゃないし。
■絶望の先進国
映画を観て思った。ロシアって絶望先進国だなって。きっと陽のささない寒い国だから昔からそうだったのかなと想像する。表情は笑っていないし、空は鉛色だし、室内は暗いし、服の色に鮮やかさはないし、食事のスープは不味そうだ。生れてきたことがちっとも楽しそうにみえない国だ。しかし人々はそれでも生きていく国だ。分厚い外套を身にまとって、それでも生きていく。ドストエフスキーやチェーホフを輩出し、西側諸国なんかよりも絶望を追求しながら、それでも生きていく。労働者革命を夢見て挫折し、スターリンやプーチンを輩出し、西側諸国よりもよっぽど絶望を追求しながら、それでも生きていく。
だったらこっちだって生きていく。
映画を観ながら、勝手にオレは”絶望先進国”に連帯した。
好きですよ、絶望の国の人々。
と勝手に決めつけているが。
■カンテミール・バラーゴフありがとう
「戦争は女の顔をしていない」という素晴らしい作品が、カンテミール・バラーゴフという素晴らしい芸術性と観客を信頼する力のある監督の手でつくられて本当によかった。