映画「ナワリヌイ プーチンが最も恐れた男」 尊敬しすぎて、白けて、嫉妬して、このままでは敵視する
妻・ユリアが画面に登場すると複雑な気持ちになってきた。
「なんだこいつら」
まるで”映画のごとき”美男美女の勇敢で正義の物語に卑小な自分が疼き出した。
ナワリヌイが政府の陰謀で瀕死となったとき、半ば監禁された病院に駆け付け「アレクセイナ(ナワリヌイ)に会わせろ」と毅然と立ち向かったユリア。
ナワリヌイは強権のプーチンに怯まず人権を獲得しようとする政治指導者である。
彼は、長身痩躯のハンサムガイで、まるでハリウッド俳優のようだ。
さらにあらわれたのがモデルのような美貌のユリアだ。
彼女もナワリヌイに劣らず品格があり、当局や警察に怯まない。
とうとう夫を奪還し、命を救うためドイツの病院に搬送することに成功する。
自分は人権や社会の公平性といったことに敏感な方だと思っていた。
学生時代から抑圧的な教師が許せなかったし、差別を目の当たりにすると胸がざわついた。
高校では校門に教師が監視のように立つのをやめろと校長室に言いに行き、大学では学生に高圧的な物言いをする教授を怒鳴ったことがある。
しかしそれから幾星霜。
オレはなにも行動できていないし、本音では行動しても何も変えられないし、自分が不利な立場になるだけだと思っている、たぶん。
少しばかり”意識高い”ことを自分自身に証明したいから、自分はこうしてドキュメンタリー映画なんかに足を運んでいるのかもしれない。
「すぐに行動はできなくても、まず状況を知ることが大事ではないか」
なんだその下らない理屈は。
しかしそれにオレは乗っかっている。
正義感や人権意識は行動を起こさないで持ち続けているだけだと、自分のなかで腐臭を放つ。
もともと持っていないなら腐りようもないが、持っているにも関わらず社会悪から目を背けるということは、『臆病である』か、『諦めている』か、『怠けている』か、『偽善である』かということになる。
闘わない人権意識、抵抗しない人権意識は、オレの中で腐って汚物のようになっている。
たぶんオレは臭い。
ナワリヌイが権力を恐れず堂々としていて、おまけに妻のユリアも美しいことにオレはなにか居心地が悪く、嫉妬のようなものを感じていた。
尊敬しすぎて、白けて、嫉妬して、このままでは敵視してしまうんじゃないか。
「なんだこいつら」
娘もルックスがよく、両親をよく理解し尊敬していた。
映画映えする家族だ。
そしてナワリヌイを支える支持団体があり、国を越えて協力者もあらわれる。
ナワリヌイ、彼はなんて恵まれた人生なんだろうと思う。
ロシアが、プーチンが非道かもしれないが、それと敢然と闘う胆力があり、美しい妻が全力で伴走してくれて、娘からの信頼があり、カリスマとして多くの支持者たちがいる。
ナワリヌイの人生はもう勝ちじゃないか。
充実しているじゃないか。
死んでも英雄、生きても英雄だ。
容貌も完璧だ。
彼には今もこれからも悲劇なんか、不幸なんか、一片もないじゃないか。
人間ってのは、こうして生きたいのだ。
オレだって、こうして生きたかったのだ。
でもオレは臭い。
オレの生きている国はロシアほど陰惨な国ではないにも関わらず、オレは政府に情報公開を求めることもせず、移民難民のことを真剣に議論しましょうとも声をあげず、国葬のことも賛否の意思表示をしない。
ナワリヌイのように堂々と生きられない。
オレは警察権力に睨まれたら心臓が縮こまるだろうし、SNSで叩かれたら思い悩んで鬱になるかもしれない。
同じ人間か。
一方は死を恐れず主張して、刑務所に入れられても闘っている。
こちらは臆病で、実はこの国はイヤな状況が進行してゆでガエルのような状況は胡麻化しようがないのに茹でられている。
挙句の果てに「そりゃプーチンは絶対にナワリヌイを潰すよな」などと映画を観ながらよぎる。
なんでだ。
オレはナワリヌイに賛同しないのか、連帯しないのか、共感しないのか。
オレがオレの中にあると思っている人権意識や正義って何だ。
そんなものは実はないか。
オレが自分という人間を「善的な者」と規定したいがために、便宜的に演じているのだろうか。
ナワリヌイはズルいじゃないか。
反体制派というのはダサくモテなくて汚くて、最終的には権力側に踏みつぶされてしまう悲劇性に帰着するものだろう。
違うか。
「悪人が勝つのは、善人が何もしないからだ。 諦めるな。」
このナワリヌイのメッセージに今自分は俯いている。
まだ絶望が足りてないんだ、きっと、そうだ。