映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

随筆「パリの砂漠、東京の蜃気楼」(金原ひとみ) 消失への希求

 

2003年には世に出ていた金原ひとみをようやく認識する自分の愚鈍さと食わず嫌い。

 

それでもこの作家に邂逅したことは今年の福音。  

 

本書はずっと立ち読みしていたのだが、やはりこれは尋常ではないと購入に至った。  

 

「この私でこの世界で生きていくしかないことが涙が出るほど恐ろしい」

 

だから生きるために死にそうな恋をし、生きるために死にそうな執筆をし、生きるために死にそうなまでに自分を否定する。

 

生きることをこれほど"ままならないもの"と体現した本は他になく、それなら死んだようにでも生きてみたくなる。

 

成長と肯定感という言葉が嫌いで、そんな自分に怯んでいたが、もう嫌いなままでいけそうだ。
 
成長で自分の原罪をごまかせると思えないし、なにかを肯定できそうな見込みは当面ない。

 

死ぬときはこの本を抱きしめていたいが、死ぬのだからもうこの本でなくても大丈夫かもしれない。

 

ただ生きているときはこの本にいてほしい。

 

死ぬ死ぬと大袈裟だか、そろそろ生きるよりは死ぬ方と親しくなりたい。

 

そうでないときっと死ぬのがとても怖くなる。

  
「私は一体どれだけの感情や他人を欺瞞し煙に巻いているのだろう。自分にも他人にもどれだけ不誠実な存在だろう。自分が誠実であったことなど一度もなかったくせに急にその事実が重たく感じられた。人は何かしらの脅威を感じると途端に感傷的で偽善的になる。あの絡み合っていたカップルや憂鬱そうだった二人の女の子達も、今こんなふうに自らの無力感に思いを馳せているのだろうかと考えると少しだけ愉快になったけれど、すぐにまた虚しくなって時計の針の音に耳をすませ天井の梁に走る木目を数え始めた。」

 

20221030

 

#金原ひとみ
#パリの砂漠東京の蜃気楼

映画「レイジング・ブル」人生失敗の誘惑

「お前、弟のジョーイとファックしたか?!ファックしたんだろ!」(狂)

「ああやったわよ、あんたのより立派だったわよ、町中の男のをくわえてやったわよ」(逆ギレ)

ボコボコボコボコ(殴)

病的な猜疑心の主人公ジェイクが、妻のビッキーに弟とセックスしたんだろと根拠もなく詰め寄る場面。これを端的に表現すると?そうです、そうです。はい、地獄です。

ロバート・デ・ニーロ演じる実在のボクサー:ジェイク・ラモッタ。デ・ニーロ・アプローチでの肉体改造。マーティン・スコセッシの映画力爆裂。ご両名の金字塔「レイジング・ブル」。

これはボクシング映画ではない。「人生の失敗」映画だ。

暴力的で、妻への嫉妬心が強い、ボクシングチャンピオン。

彼のことを狂人と言ってもいいし、ちょっとかわいく"不器用な男"と表現しても構わないと思う。

確かなことは人生に失敗したジェイクの因子はオレの中にもあるということだ。嫉妬心が強く、不器用ってたいていの人間が当てはまってしまうのではないか。

「あんたいつか私のこと殴るよ」

そう女に言われたことがある。この心優しき、臆病なオレが女を殴るはずないだろ。でも彼女にそう言われたことで、ぼんやりとしていた自分の中の暗渠が顕在化した。そう、いつかオレはこいつを殴る。それくらいの悪魔的憎しみをオレは先天的に孕んでいる。

チャンピオンになったものの、相棒だった弟を失い、妻子を失い、敬意を失い、投獄され、金はなく、太った体でつまらないコメディアンになったジェイク。

スクリーンに映るジェイクの人生はさほど特殊には思えなかった。極言すれば平凡な人生であり、普遍的な転落として共鳴することさえできた。金持ちや貧乏人や美人やブ男や天才や市井の人がみじめになるのはよくある話だ。

「人生の失敗」って何だろう。

ラストショットが家族の食卓で終わらなければ人生は失敗なのだろうか。金のない最期、孤独な最期、狂った最期、殺された最期、蛆の湧いた最期。こうやって死んだらいけないのだろうか。

こうやってしか死ねない気がする。

不器用であるという自分をそれなりに偽りなく愛して育んで行けば人生は「失敗」しか待っていない気がする。不器用という自分のゆがみは、自分そのものだからだ。

なんとか欺瞞に成功して不器用という自分の愛おしいゆがみを封じ込めれば、欺瞞の自分と欺瞞の妻と欺瞞の家族を手に入れ、家族の食卓に着けるかもしれない。

その食卓の座り心地はどうなのだろうか。

心配しなくてもそんなものに座らないとも思う。失敗はなぜか優しく、いつもおいでおいでしてくれている。

#マーティンスコセッシ
#ロバートデニーロ
#レイジングブル
#午前十時の映画祭
#ジョーペシ
#ジェイクラモッタ
#映画好きと繋がりたい

映画「愛してる!」 ハダカになりたい in veloce

 

おっぱい出しちゃって、奴隷になっちゃって、とびきりの表情で、「カノンさま、愛してる!」って、自己の解放を仰ぐ。

この息苦しい国にあって、これ以上の素晴らしい突き抜けはない。ブラーボ!

新しい映画を観たという充足感。映画が始まるや既視感ゼロな面白さが爆発。「べいびーわるきゅーれ」を観た衝撃に近い。自己実現映画の新時代を拓いたと言ったら大袈裟だろうか。まあいいじゃないか、景気よくやろう!(上機嫌)

何かを身に着けて自己を実現するんじゃなく、全部脱いで自分になる。コペルニクス的転回。

オレも服着てんのがイヤになってくる。なんでこんな布を纏ってんだろうって。ああ脱ぎたい。脱ぎたーい。オレいまベローチェだけど脱ぎたいのだぁ。みんなも脱ぐといいのだぁ👖👕👔👗👘🥼👚

このように「心身が裸になれた喜び」を伝えることに成功している。観た人はもう高島兄の虜。公然わいせつ罪になっても「それでもハダカは回っている」といい声で言いたい。何言ってんだかわかんないけど。

いきなりスカートまくり上げちゃって🎉
ライブ×プロレス×SM=愛してる❤

設定が同性同士だったり、役割の明確なSMであったりすることが、”自分の解放”と相性が良かった。自己の解放がきわめて”内なる問題”になっていた。これが男女やフリーセックスにすると承認欲求とか公平性とかの雑音が入ってくるだろう。

それから「ドキュメンタリー撮影」している設定で手持ちキャメラの映像を通して主人公を見ているのも面白かった。本作の出演者たちの演技リアリティ(ちょっと稚拙でも😝)とうまく嚙み合っていたと思う。

もうこれでいいでしょ!東京国際映画祭パルムドールラブドール?なんていうの一等賞。全員スッポンポンでレッドカーペット歩いちゃえ。気取ってタキシードやドレス着ている美男美女なんかラリアットだ。女優はどいつもこいつもシースルーとかさぁ、すげー切れ込みとかさぁ、中途半端でオレはモジョモジョするんだよ。映画祭だ👯祭りだ🪩脱げ脱げ🐖イエーイ🎊ヤッホー🎇

変態になりたい。
首輪ポチるか。

#ロマン愛してる #映画 #映画鑑賞 #映画好きな人と繋がりたい #ロマンポルノ #ロマンポルノナウ #日活 #日活ロマンポルノ #日活映画 #川瀬知佐子 #鳥之海凪紗

映画「もっと超越した所へ。」 焼肉行きたい


男女関係を、愛で語るのはもうやめにしないか。

AIが何でもかんでもの時代に、男女の議論はいまだ旧石器時代だ。

私たちはホルモンに支配されている。誰かを好きになるのは完全にこいつの仕業である。このことが自明になって久しい。

私たち自身に恋愛の自治権はない。習近平(ホルモンと読む)の独裁だ。

しかもこのホルモンと下半身の連立政権は3年任期だ。あんなに愛した(発情したと読む)相手も最長でも3年で「はぁ誰だっけおたく?」となる。

また新しい相手にドーパミンをビュンビュン出してキュンキュンしたくなる。これはもう構造的にゲスを責める前にホルモンを理解すべきだ。

ホルモン憎んで、渡部憎まず。
みちょぱだって、ホルモン次第。
 
 愛の不時着 → ホルモンの不時着
 愛がなんだ → ホルモンがなんだ
 生きてるだけで、愛 → 生きているだけで、ホルモン
 愛されるより愛したい → ホルモンされるよりホルモンしたい

「米が重いのでやっぱり男がいてほしい」

前田敦子のこの一言は、革命的な思想に思えた。愛でもホルモンでもなく、米。ついに男女関係をホルモンから私たち自身に取り戻す日がきたのか。しかし前田氏の言ってることも、男に求めるのは「役にたつこと」であり、煎じ詰めれば「経済力」となり、おそらくこれはこれであんた稼ぎなさいよの修羅場と化すだろう。

米を持ってくれた、電球を変えてくれた、コーヒーを淹れてくれた、耳毛を切ってくれた、4年ぶりに抱いてくれた。

こんなささやかさで男女は一緒にいられるのだろうか。いやさ、よしんばいられたとしても、夫は妻はパートナーは長くいれば何かやらかしてくるものだ。

リバースして部屋を汚す、おもらしして晩節を汚す、鬱になって面倒掛けてくる、色違いで同じ型のワンピースを4着新宿伊勢丹ポップアップで買うてくる(実話)、ネットワークビジネスに騙される、体臭がきつくなる、座りションをしない、座りションをさせる。

ダメだ!どう考えても男女はうまくいかない。

私は、映画「もっと超越したところへ。」を観ながらうまくいかない男女をざまあ見ろガハハと笑う。帰り道、あのカップルも、あのカップルも本質的には不幸なんだなと、早足でふたりの間を割って通過する。勝った。ラブホに入る車を見て舌打ちする。ナンバー「福岡 1919」。なーにー!スーパーで3玉100円の焼きそばを買う。3玉もいらないのに。真っ暗なアパートに帰る。「死のうかな」とつぶやく。

どんなに男がクズでも女は男が好きなのである。
どんなに女が面倒でも男は女が好きなのである。
LGBTQも男か女かその両方が好きなのである。
だけどそれでいて私は私がとても好きなのである。
私のことは嫌いでも私のことは嫌いにならないでください!(涙、鼻水、いろんな汁)

この映画、最後このくらい取っ散らかして終わった。80年代の小劇場演劇、もしくはテント芝居の”屋台崩し”だった。

くだらねぇ、痛快、無限ホルモン!

なんか焼肉行きたいね🥩

#もっと超越したところへ#前田敦子#菊池風磨#伊藤真理華#オカモトレイジ#黒川芽以#三浦貴大#趣里

映画「愛する人に伝える言葉」 観客である私も死んだ


主人公バンジャマンと一緒に死ぬことができる映画だ。

死ぬことは怖かった。

なにも成し遂げていないのに死ぬと思ったらとても哀しかった。

オレは演劇教師なのだが、生徒の肌と肌が重なるところが愛そのものに輝いて見えた。

もっと演技レッスンがしたくなった。

うまい演技なんかするな、おそれず自分を解放しろ。

ドクターと看護師が歌っていたよ。

楽器を鳴らし、手を叩き、笑顔でね。

それは希望なのか。

わからないけど”ああ人間だ”と久しぶりに思った。

看護師に恋をした。

指輪をしてたけど。

母さんの顔をたくさん見た。

ぜんぜん優しくできなかった。

息子を認知しなかったことを心底後悔して死ぬことになった。

オレは本当になんだったんだろう。

オレが死ぬとき、親愛なるドクターと親愛なる看護師は非番だった。

だから前の日にさよならした。

大好きな看護師が病室を出て行った。

次の日、母さんが席を立ったときに死んだ。

許して、許すよ、ありがとう、愛してる、さようなら。

観客である私も死んだ。

#愛する人に伝える言葉
#カトリーヌドヌーヴ
#ブノワマジメル
#セシルドフランス
#ガブリエルサラ
#エマニュエルベルコ

映画「アイ・アムまきもと」 死んだんじゃない殺したんだろ


☆クライマックスに関するネタバレあり☆

寓話だと思って、そんなに真剣に取り合わない方がいいのだろうか。

阿部サダヲ演じる牧本の「無垢」「天然」「空気が読めない」は『キャラ』だと割り切って、笑うか、ほっこりしていればいいのだろうか。

ただキャラと割り切るには他の人物とのリアリティラインが合わない。例えば、國村隼の実在感。目に障害があることを示す演技はコクソン級。キャラ演技ではなく、リアリティの真剣を振りおろしてくる。ほか主要キャストも実在感バリバリで人物造形している。

そうなると必然、牧本のような人が実際に世の中に存在したらどうなるのかとシリアスに想像してしまう。結論から言うと彼は生きていけない。仕事に就けない、友人ができない、結婚ができない、社会に受け入れられない。こういうことになる。(アレ⁈オレもだ💦)

昼間は裸の大将のようなコメディ色の牧本だが、帰宅後の部屋での描写は恐ろしくリアリティのあるものだ。殺風景な部屋、粗末な食事、死者の写真のスクラップ。まるで霊安室のような部屋で寒々しく孤立している牧本にゾッとする。意図的に複数回こうした胸が痛くなるような場面がインサートされる。

牧本は作品の都合で殺されたのだと思う。

ああして物語を閉じるしかなかった。満島ひかりと結ばれるはずがないし、すでに役所でも居場所がなくなっている。生きていても世界から排除されるイメージしかできない。

阿部さんが演じるから牧本を滑稽だと笑えるが、実際に彼のような「無垢」がいたら笑えない。誰もつき合わない。

映画は彼が死んだことでうまく収まってしまった。「そんないい奴がいたよね」という都合のいいほっこり。この映画は牧本で物語を回しておいて、最後は置き所がないから殺した。殺して神様みたいに祀った。

あとは残った”正常な”人物たちが、しおらしくしたら映画は終われる。葬儀場でのオールスターによるバトルロイヤル。宮沢りえ満島ひかり國村隼松尾スズキ、でんでん、嶋田久作文学座小林勝也。名人が一堂に会して、無言で圧巻の芝居を披露して観客の留飲を下げる。なによりここにいるべき阿部サダヲがいないという不在の存在感がとどめを刺す。

やっぱり殺人だろ。作品が牧本を殺したんだろ。映画を感動的に終わらせるために。

牧本のような奴が生き続ける可能性を示すことに「がんばったがんばった」しなきゃダメだったんじゃないのか。

あみ子、牧本、ウ・ヨンウ弁護士…
やれやれ。

私が難癖つけているのかどうか、ぜひ劇場でご覧になってみてください🐖

#アイアムまきもと
#阿部サダヲ
#満島ひかり
#宮沢りえ
#ウヨンウ弁護士は天才肌
#映画好きと繋がりたい
#松下洸平
#松尾スズキ

映画「線は、僕を描く」 ちはやふるなんてお遊びやったって全員に言わせて♡

下品な映画だ。

下品なオレが下品だということは、一般的には「きれいな映画だ」ということになる。

一般?!なんだそりゃ。一般なんて人はいないし、自分は一般人と思っている人もいない。

みんな固有の美と悪と臭さとズルさと素直さと性欲とかゆみと虫刺されのあとで生きている。

この映画のきれいさは、いったい誰のきれいさだ。

横浜流星の?清原果耶の?河合ちゃんの?

ノン、ノン。あいつらだってバファリンよろしく半分は「業」でできている。

このきれいごと映画はなにをもたらすんだろうか。

それがオレにはわからないんだ。

心の中で「クソ、クソ」って念じてた。微力ながら作品に汚物のエッセンスを加えるようにやってみたが、下品なきれいさはどうにも上品に汚れることはなかった。

ウソにしか見えないんだよ。

人間のいい面しか描かないから人間に見えないんだよ。言葉まみれにするから映画に思えないんだよ。聞いてるか⁉マリコ、お前もだぞ(流れ弾)映像が流麗なだけじゃ映画全体は担いきれないんだよ。清原ちゃんの横顔の美しさだけを見に来たわけではない。まあ見に来たんだが😤

こんなきれいで澄んだ映画に住める観客はいるんだろうか。まあ、いるよね。それはギザステキです。

 ”小泉”の清きにオレは棲みかねて もとの濁りのAV恋しき

筆をさ、持ってる流星の手をさ、後ろから清原ちゃんがつかんでさ、こうじゃなくてこうだよってさ、レクチャーするのをさ、流星が土器ッてなるのさ、あれさ、AVとかでさ、よくあってさ、先生ー先生ーってさ、押し倒すさ💃🕺

映画を観るまで実は不安だった。おもしろかったらどうしようと。

カラダが震えるほどおもしろかったらヤダな。正直つまんない映画だといいな。

ちはやふる」を上書きされたら本当にヤダ。

心は「名前を付けて保存」できねーから。あのバクバクした衝動を超えるものなんて観たくない。あれがどっかに消去されたくない。

観たい、観たくない、観たい、観たくない、きゃー---!

ちはやふるなんてお遊びやったって全員に言わしたるわ」

ぎゃぁぁぁぁぁぁぁー--ぁぁぁぁぁ---ぁぁぁぁっ!

小泉監督には「ちはやふる」の借りがあるから、あと100本くらいは待てるわよ♡

死ぬわ。

#線は僕を描く
#横浜流星
#清原果耶
#河合優実
#細田佳央太 
#小泉徳宏