映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「ある男」 背中が痛い

冒頭、マグリットの「複製禁止」という絵画からはじまる。

絵の中の男はこちらに背を向ける格好で鏡の前に立っているのだが、鏡に映っているのは自分の後ろ姿という奇妙な絵画だ。鑑賞者は2つの後ろ姿を見せられることになる。

さらに画面には、その絵画を見ている男(妻夫木聡)の背中も入ってくる。

ブッキーの背中、絵画の男の背中、鏡の男の背中と3つの後ろ姿が連なる。

そしてスクリーン越しにそれらを見ている自分の後ろ姿があることを意識する。

後ろ姿とは何なのか。

後ろ姿からは顔や表情を確認することができない。
一方で正面とは違って、後ろ姿にはその人の過去や語られない真意が見える気がする。また自分自身は後ろ姿が他人にどう見られているのかがわからない。

3つの後ろ姿を見ていると「お前はいったい何者だ」という思いが沸き起こるとともに、そこに自分が4つ目の後ろ姿として加わり、「オレはいったい何者なんだ」と自問する思いに憑りつかれる。

そんなことを考えているとタイトル『ある男』が意味深に浮かび上がる。

愛した男(窪田正孝)の正体は誰だったのか。弁護士の妻夫木聡が調べていくという展開がはじまる。それはまさに男の背中を追うことであり、背中とは男の過去の象徴でもある。妻夫木聡や残された者(安藤サクラ)たちは、男の正面(正体)を見ることを切望しながら、同時に「人間存在」とは何かとの思いを馳せる。



作中何度も妻夫木聡の後ろ姿が印象的に映し出され、その度に進行している謎解きストーリーを超えて「おまえは誰だ」「オレは誰だ」という声が聞こえてくるような気がする。妻夫木聡は「お前は誰だ」と男を追ううちに「オレは誰だ」と自分がわからなくなり、観客も「それではオレは誰だ」と”ミイラ取りがミイラ”が連鎖していく。

それにしても巨大な映画を観てしまったという感慨だ。劇場で2回鑑賞し、原作小説も読んだ。それでも「自分はこの映画をほとんど見えていない」という残滓のような思いがつきまとう。もちろん物理的にスクリーンを観ることはできるが、そのスクリーンの遥か後ろの方まで奥行きがある映画という感じがする。表面は見ることができたが、その奥にあるものをいくらかでも見ることができていたのだろうか。

平野啓一郎×石川慶」ともなれば分厚い映画になることは当然なのだ。氷山の一角しか見えていないのは、考えようによっては幸福なことだ。この映画から感じること、学べることがまだまだある。これからも観たい映画に出会えた。

石川慶監督は長編デビュー「愚行録」のときから撮影が抜群で、些細に思えるショットにもなぜか目が釘付けになる。いや”些細なショット”などないのかもしれない。すべてが強烈に意味づけされていているのだ。しかし到底それをすべて読み解くことはできない。それでもまるで強い磁場のようなショットに抗えず惹きつけられるのだ。今年観た映画の中で間違いなく最も固唾を飲んで対峙したのは「ある男」だ。

そして平野啓一郎の原作も「男の正体」という謎解きを縦軸にしながらも、人間存在、恋心、在日、家庭不和、死刑制度、遺伝と環境、東日本大震災などの論点を横軸に織り込んだ作品となっている。だから男の正体がわかったからといって、この作品を読了したとは言えない重層さがある。

終盤、妻夫木聡はとうとう男(窪田正孝)と”正対”する。窪田正孝は穏やかな表情で山林に佇んでいた。妻子も在日も過去も捨てて自分を消失するという誘惑を抱いたブッキーは、どうしても男を正面から見たかったのだ。

それにしてもいまだに背中の居心地が悪い。

偽物っぽい男は「あなたと過ごした3年9か月が彼の人生のすべてだったと思います」と語られ、本物かと思っていた男は「私が本当に小見浦だってどうしてわかるんですか」とのたまう。

背中が痛い。

後ろ姿を誰かが見ている。誰かの視線が張りついている。おそらくオレ自身の視線だと思う。

お前は誰だ オレは誰だ

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