映画「あちらにいる鬼」 オレの妻
寺島しのぶと”これから一発やるぞ”というときに男が口にした対照的なふたつのセリフ。
「オレはあんたを抱きに来た」(豊川悦司)
「ああ、エサの時間か」(高良健吾)
まさに男女のセックスをめぐるビフォア・アフターだ。トヨエツはホテルのドアをガチャリと開け、いきなり寺島しのぶに「お前を抱く」と宣言し、一方で長年一緒にいる高良健吾は寺島しのぶにせがまれ「エサを与える」と気怠くのたまう。
そうさな甘やかだったセックスは、いつしかゴミ出しよりも面倒なものに変容する。いやぁ映画ってやっぱり夢あるなぁ(涙)
作家である寺島しのぶとトヨエツが性欲モンスターのように情事するなかで、妻の広末涼子はトヨエツの帰りを待っている。
ヒロスエははたして不憫だったのだろうか。
もしオレの妻がほかでセックスしていたらどう感じるだろうか。
「あなたは配偶者のこと愛してますか?」に愛してるって答えられない。「あなたは配偶者のこと愛してないですか?」に愛してないって答えられない。
そんな妻のセックスをオレはゆるせないだろうか。
悦楽してて狡いなとは思うだろう。けれど嫉妬に焼かれることはもうない。むしろ妻に”貸し”ができたと嬉しく思う。妻が罪悪感から優しく接してくれることも期待できるし、オレもほかでセックスしてもいい権利を有したと未来が少し晴れやかになるかもしれない。
夫婦にとってセックスって大事か。味のなくなったガムのような行為。要らなくなったと思っていた妻とのセックスを他の男がほしがったから、なんだか惜しくなっただけではないのか。
セックスなんて腰を振れば中学生でもできる。しかし配偶者と長年ともに暮らすことは絶望を寛容した夫婦にしか絶対できない。
妻と愛人との悦しいセックスも、やがて腐臭を放つような惨めなものになると知っている。夫婦は虚しい。不倫は虚しい。独りは虚しい。出家もきっと虚しい。
脳天の痺れるようなセックスの甘やかな悦しさは、風に吹かれて虚しい大地に帰っていく。何度も何度もイッたとか、何度も何度もイカせたとか、そんな蕩けた話は二束三文にもならない。
虚しいをなるべく視野に入れないために、汚れた台所の床を拭いたり、しょうもない花の写真をSNSにアップしたり、部下を叱ってその3倍褒めたりする。”虚しい”から1秒でも逃れたい。箱ティッシュとサランラップが切れて買いに行かなければいけない状態は、虚しい人間にとって最高の幸せだ。
映画の中で若者は”革命”をしていた。それを大人たちは眩しそうに見つめていた。虚しさつぶしに革命はうってつけだろう。
生まれてきてよかったと思えるほどの素晴らしいセックスは終わりの始まりだ。オレよ、セックスされてあわてるな。妻のセックスはオレの快楽を奪うわけではない。妻と愛人を退治することは、決してオレの幸せと相関していない。オレだって道にセックスが落ちていたら拾ってもいい。その女を抱き死んでもいいと思えるほどの絶頂の高みに昇っていき、そこから地面に叩き落され実際に死ぬような目に遭うことを厭わないなら、オレは世界中の女とセックスしてもいいのだ。
この映画ちょっと長いので途中寝てしまって、夢うつつの中でこんな思念が渦巻いていた。目を覚まして、相変わらず物分かりのいいヒロスエがアヒル口で佇んでいるのを観ながら気がついた。オレに妻いねーじゃん🐥
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