映画「ヘルドッグス」 すべてはショットにある
映画を観ているときというのは、たいてい思考が回転します。
映画の場面に触発されて、過去を思い出したり、自分なりの意見が浮かんだりする感じです。それら思考は主に言葉で行われます。
「ヘルドッグス」を鑑賞しているとき、思考はまったく回転しませんでした。
感覚としては、感性の毛穴が開きっぱなしという感じです。
終映後、混乱をおさめるため一旦帰宅してランニングし、またすぐ映画館に戻り、今度は最前列中央の席を買いました。
『ストーリーとテーマは考えるな、画面だけ観ろ。画面に映っているものを観ろ』と自分に言い聞かせました。
ランニング中、村上春樹が「文体」について語っていることを思い出していました。
文体こそがすべてである。どうしてみんなもっと文体にこだわらないのか。
文体は、なにを書き(なにを書かず)、どう書き、どんなリズム(長さ)で書くかということ。
映画で言うなら文体は「ショット」に相当するのでしょうか。
本作は原田眞人監督がショットをこそ創っていると思うのです。
だからストーリーやテーマを言語的に解釈しようとすることをやめました。
いや、言語解釈したくても、豊饒なショットに釘付けで無理なのです。
パク・チャヌクの作品でもそんな状況になりますが、もっとこうコッポラやヴィスコンティの映画に親和性がある感じがします。
この点に関して近しく思う方がいたらいいのだけど、そんな方いないかなと今自分は孤独です。ヘルドッグスがエンタメを超えてしまって、映画の巨大さを感じているものになってしまっている方がいたらいいなぁと思っています。
とにかく画面にあるものを視聴覚でそのまま受け入れて鑑賞しておりました。
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岡田准一の背中があまりに分厚く、歩き方がレスラーだ。
MIYAVIが蹴り割った瓶の破片をかがんで拾っている。
やくざ達がひな壇に並んでイタリア語の歌を合唱している。
木竜真生と坂口健太郎のセックスシーンは終わった瞬間を切り取っている。
金田哲がピンクの「めまい」階段から墜落する。
ヤクザは白熱しているというのに、街中で若者たちがダンスしている。
「バウンスkoGALS」のヤクザ(役所広司)に続いて、ここでもヤクザが革命歌「インターナショナル」をカラオケで歌う。
大竹しのぶが十字架を唇にあてる。
松岡茉優の髪がアッシュでグリーンだ。
北村一輝のビキニパンツが極小すぎる。
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こうしてショットにだけに集中しました。
ストーリーもテーマもわかりません。
正確には、あまりわかる暇がない。
もっと言うと、特にそれほどわかりたくない。
その余裕があるならもっとショットを観ていたいという気持ちです。
画面さえ観ていれば立ち昇ってくるものがあります。
それは、滅びとか無常といったものでした。
画面はこんなにも豪華で豊饒なのに「なにもかも滅んでいく」という感慨が立ち昇ってきたのです。
ただ虚しいだけの無常とは違いました。無常であるのに、世界はこんなに豊饒で、人々はこんなに賑やかで、そのことがとても健気だなという感慨です。
正直、アクションについては、それほどまで優先度の高いものではありませんでした。そりゃあ、飛びつき変形腕ひしぎを切り返しての投げ捨てパワーボムとか面白いですが。
それよりも大事なことは、画面が美術的であり、一画面あたり同時に多くの要素を投入して重層的であり、多彩な作品のオマージュが歴史的であり、古典を彷彿させていてゴシック的であるという点です。とても巨大な映画ということでした。
原田眞人は何者なのか。
ボクの中で格別な映画を創る人として、別格のところに君臨しています。
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