映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「アダマン号に乗って」 私は客席で船を漕ぐ


□あちらとこちら

精神疾患ではない人っているんだろうか。

映画を見ていると確かにこちらとあちらという垣根が溶けていく。

セーヌ川に浮かぶデイケアセンター「アダマン号」の人々。

ドストエフスキーシェイクスピアを思慮深く語る男性がいる。私は彼と同じ土俵で芸術を語ることは到底かなわない。

薬を飲んでいないと自分を抑えられないんだと述懐する男性もいる。しかし私は怒りが抑えられず夜中に部下のPCを叩き壊したことがある。

私は客席なんかに座っていていいんだろうか。

あらゆる人々と共生しようという世界の挑戦がある。
社会的動物である人間の目標は「誰ひとり置いてけぼりにしない」ことだろう。

一方で理想ばかりでは社会が成り立たないという論もある。

経済格差、難民問題、社会保障、マイノリティ...

この映画から受け取ることができるのは、「あちらとこちら」という線引きは実はかなり難しいということだ。

精神疾患的要素はあちらにもあり、こちらにもある。

経済的転落の可能性はあちらにもあり、こちらにもある。

性的多様性はあちらにもあり、こちらにもある。

どこまでが私で、どこからがあなたか。
どこまでも私で、どこまでもあなた。

この考え方は物事を単純化して整理するのには厄介なものかもしれないが、私たち人間は単純ではないことにすでに気づいてしまっている。



□人間爆弾は君だけのもの

爆発しそうな心を抱える人々がアダマン号で何をしているのか。

薬の服用やカウンセリングも受けているが主軸となるのは”ワークショップ”だ。

音楽、絵画、ダンス、料理、カフェ運営…

なんだかすごく納得できる。

私とはなにか。

そのことをいつも人は追い求めていて、それによって自分の輪郭を把握している。

そして輪郭を理解したら、それを抱きしめて、この世界に自分を辛うじて繋ぎとめている。

音楽を聞いたり、本を読んだりするのは、自分が感動することによって自分の心が存在していることを確認するため。

ダンスをしたり、走ったりするのは、自分の体が反応することによって自分の体が存在することを確認するため。

絵画を描いたり、文章を書いたりするのは、自分が社会の中で一個として存在出来る可能性を確認するため。

ひとりの男が絞りだすようにフレンチロックを歌う。

 起爆装置は心のすぐ隣にある
 人間爆弾は君だけのもの
 自分の運命を誰かに支配させたら
 それは人間爆弾

□そんなに信用されてもなあ

それにしてもこの映画、
「そんなに信用されてもなあ」と思う。

ベルリンの金熊賞を獲得していて、二コラ・フィリーベル監督はドキュメンタリーの巨匠らしい。

恣意的な演出やメッセージめいたものを排してただただアダマン号の人たちを映し出している。

余計なことはしなくていいでしょ。
人間をただ見つめていていればいいでしょ。

人を買いかぶるのもいい加減にしてほしい。
いくらなんでも寝ちゃうよ。

監督がここまで極端に他者へ委ねる姿勢に困惑しながら、アダマン号は決して動かない船なのに、私は彼らの話す声をうつらうつら聞きながら客席で船を漕ぐ。

映画って難しいね、面白いね。

 


#アダマン号に乗って #二コラフィリーベル #ベルリン国際映画祭 #デイケアセンター #人間爆弾 #映画好きな人と繋がりたい #映画館が好きな人と繋がりたい #映画