映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」 いつも、どこでも、ぜんぶ一度にしたい=頻尿という世界線


□同時代の切実な瞬間

本年の映画賞を席巻したということは、同時代性を激しく内包している映画ということだ。

賞というのは皮肉なもので、賞をもらったばかりにのちの世で罵られたりする。

「なんでこんなのがアカデミー賞なんだよ」

これは芥川賞でも、レコード大賞でも、どっかの会社の社長賞でも当てはまる。

『コーダ あいのうた』
ノマドランド』
『パラサイト 半地下の家族』
『グリーンブック』
シェイプ・オブ・ウォーター
『ムーンライト』
『スポットライト 世紀のスクープ』
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
それでも夜は明ける

ここ数年のアカデミー賞作品賞
必ずしも評価の高い作品、愛される作品、興行成績がいい作品ではない。

記念すべき第1回アカデミー賞作品賞『つばさ』。
ほぼ誰も知らないし、だから観返されたり讃えられたりもしない。

しかし『エブエブ』はじめ賞が戴冠された作品には、「同時代の切実な瞬間が映りこんでいる」と多くの人が認めたのは確かなのだと思う。



□映画は多元宇宙

無限に広がる可能性、マルチバース

ボクらが映画を観る行為はまさにマルチバースで、チケットを見せてスクリーン内に入っていくのはエヴリン(ミシェル・ヨー)のバースジャンプだ。

たとえば『少女は卒業しない』で、女子高生が自ら大切なものを手放すという決意に頻尿や不眠に悩むボクのようなおっさんが号泣するそのキモさは許してほしい。

もはやこの世界線に没入して、頻尿おっさんも制服のスカートを必死に腰で折ってスースーしながら生きているのだ。

河合優実が好きだから号泣しているのではない、もはや河合優実なのだ。
 
足出すからさらに頻尿が悪化する世界線

『ロストケア』でマツケンがやったことを否定できないのは、観客誰もがあり得たかもしれない人生(もしくは起こり得る人生)という多元宇宙に飛んでいるからだ。

特に『トリとロキタ』や『マイスモールランド』といった世界線は深刻だ。

選択さえしておらず、生まれた国によって人生が左右されるという誰にでもあり得る可能性に激しく心が動揺する。

たまたま日本に生まれただけの自分。
在日出自とか紛争国とかで生まれるというユニバースは背中合わせの身近なものに感じられる。

だからこそ難民・移民の映画は劇場を出たあともバースジャンプが解けず、数日間こちらの世界とあちらの世界の両方を生きるような気分になる。

あちらの世界の自分を助けたいという強い気持ちと、あちらの世界の自分を見殺しにしているという強い罪悪感。

多元宇宙などと言わずとも、あり得たかもしれない自分はすぐそこの隣人である。



□強さでも正しさでもなく

こうやって映画によって、あらゆる世界線やあらゆる国、あらゆる境遇で生きると、どこにも絶対的な幸福は存在しないと気づいてくる。
 
まさに虚無のベーグルを観てしまう訳だ。

そんななかで手放してはいけないものは何か。
どの世界線であっても守りたいものとは。

結局は”この日常”で生きなければならないことは承知している。  

『青い鳥』はこの世界線にいる。
自分の家、自分の中にしか青い鳥はいない。

『エブエブ』ではそれを”be kind”というところに帰着させた。

ひっちゃかめっちゃかに世界を広げ、おもちゃ箱をひっくり返し、ベーグルだの石だの「PUNK」だのと大騒ぎしての”be kind”である。

あり得たかもしれない人生。
こんな人生を選んでしまった自分。

いずれにしても必要なのは、”be kind”だった。

なにを今さらかもしれない。
なんとも心もとないかもしれない。

それでも多くの人が”今の時代をあらわすもの”として直感したのは間違いないのだろう。

強さでも、正しさでも、美しさでも、豊かさでもなく、”be kind”。


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