映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「わたし達はおとな」 自分のためのパンを焼いた祝福

こんにちはノブです。

今日は、加藤拓也監督の「わたし達はおとな」です。

鑑賞から4日経っても私の心の沸騰が全然おさまりません。

ではいきましょう!



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おとなになっていくわたし達の、ほんのひと時の、だけど永遠の─あの時。

大学でデザインの勉強をしている優実(木竜麻生)には、演劇サークルに所属する直哉(藤原季節)という恋人がいるが、ある日、自分が妊娠していることに気付く。悩みながらも優実は直哉に妊娠と、ある事実を告白する。直哉は将来自分の劇団を持ちたいと願っていた。現実を受け入れようとすればするほどふたりの想いや考えはすれ違っていく…。まるで隣の男女の生活を覗き見しているような不思議な映画体験で私達をスクリーンに釘付けにし、その切迫感と「圧倒的にリアリティのある日常」を突きつける本作。同じ時を過ごして、お互いを求めたあの時、そして今、お互いが分からなくなって…

■不気味な新人監督の登場

本作で映画デビューの加藤拓也監督は29歳。

既に演劇界では相当な実績をあげており、非凡さがうかがえます。

本作では、アドリブかと見紛うような完成度の高い口語会話劇で異常な臨場感を作品世界にもたらしています。

人物たちの生理的な発話を通して、その先にある人間の暗渠(あんきょ)を曝してみせるという展開です。

こうした”性格の悪い”緻密な演出は、濱口竜介や「葛城事件」の赤堀雅秋、「何者」の三浦大輔を想起させます。

人間の暗部や恥部を冷静かつ写実的に再現してみせる20代監督の才覚に、もはや不気味さを感じます。

やれやれこの監督もこれからずっとチェックしていかないといけませんね。

 

■優実の側に立つ

優実と直哉という若いふたりを描いたこの映画について、自分は「未熟なふたり」という表現を使いたくありません。

直哉は、優実に「性暴力」をふるっています。

そのような行為に及び、かつ開き直っている直哉と、そのような行為をされた優実を、同列に語るような表現は私にはとても違和があります。

私は優実の側に立つ。

もし優実に対して、中出しされることを拒めとか、直哉との交際を望んだだろという見方があったら、それは加害側の傲慢さがあると考えます。

優実が恋人やセックスを求めたことは断罪されることではなく、普通の希望です。

しかし、そこにつけ込んで直哉が中出しや無自覚な悪で優実を蹂躙をしたことは断罪されるべきです。

鑑賞後数日経っていますが、いまだに激しい怒りがあります。

直哉含む男たちが何の断罪もされずこの映画が終わる猛烈な後味の悪さがあります。

 

それこそが加藤監督の意図したところかもしれませんが。

 

■母の死を周囲に話さない

主人公の優実を語るうえでのポイントは、彼女の母親が死んだ時にそのことを恋人(彼の所業を考えるとはそうは言いたくないのだが)の直哉に話していない点だと思います。

おそらく優実は大学の友人たちにも母の死を話していません。

監督はもちろん意図的にそのような行動を彼女に設定しています。

母親役を石田ひかりという高名な俳優が演じているので、観客も優実の母の死は大きな出来事として認識します。

そんな大きな出来事を恋人や友人に語らないとは、優実の何をあらわしているのでしょう。

そもそも優実は、内向的な振舞いをする人物として描かれています。

推し量るに、他人に心を許して本音を吐露することがない人物です。

語るべき友人がいないのが悪いわけではないと思います。

ペラペラと心のうちを話せる人間がいいわけではなく、それは各人のスタイルです。

優実という人物は、感情を飲み込み、自分と対話し、他者には慎重に接するような気質です。

ただそうであっても、母の死という人生で最も辛い出来事を直哉に話さないというのは、なかなか特殊なことだと思います。

可能性として考えられる優美の内面は、たとえば以下のような心情です。

 

  ・直哉に話して、母の死を安易に紛らわせたくないから話したくなかった

  ・直哉は好きだが、自分の気持ちを汲んでくれるか確信がないから話せなかった

  ・混乱していて、今のタイミングでなにをどう伝えていいかわからなかった

 

いずれの心情であっても、優実が母の死をという大切なことを他人に話さない選択をする人物なのです。

これは優実が基本的に「ひとりで生きている人間」であることを示しています。

他者に自分を開くことを拒むのは、自分を抑えていると読み替えてもいいのではないでしょうか。

母の死というパーソナルな話をするとき、きっと人は「素の自分」を他者に開くことになります。

優実がそれを回避するということは、「素の自分」に確信が持てず、納得できる自己を見失っている可能性があります。

優実は、納得できるき自己を見失っている状態で現実を生きているのかもしれません。

そしてそれならば、自分の奥深い部分については閉じて、積極的に「ひとりで生きている人間」になっているのかもしれません。

そうでありながらも優美は人並みの女の子のように恋人とセックスを求めました。

恋人やセックスに幸福をもたらすなにかを優美が期待することは無理かなぬことです。

しかし残念ながら幸福も、優実が自分を開示しようとする勇気も、もたらされることはありませんでした。

それは当然です。

直哉は自分のことしか考えておらず、しかも自分の欺瞞に無自覚な人物です。

自分を賢く優しい人間と考えており、優実を啓蒙するという態度がありありです。

そんな相手と一緒にいる優実は自分を開くどころか、「ひとりで生きている人間」という部分をより醸成させていくことになりました。

■長い長いラストショット

優実は、直哉とそれから行きずりの男からの性暴力(承諾していない中出し、拒絶したにもかかわらずの中出し)に遭いました。

直哉を好きだという恋心があるがために、直哉のいいように支配下に置かれたような状況でした。

しかし終盤の直哉との口論を経て、もし優実が他人に心底絶望し、恋心の幻想が壊れたのならが、それは祝福であると思います。

もう恋人やセックスにすがることなく生きていけるかもしれないからです。

お腹の子どもはどうするのか。

ひとりで生み育てるのか。

堕胎することになるのか。

この問題があるので彼女の前途はまだ険しいです。

直哉は何の代償も払わず、何の責任も負わず、おそらく自分が被害者くらいで彼女の家を出ていきました。

そんな状況に置かれていても、私は優実を祝福したいと思います。

映画冒頭で優実は男物の下着を畳んでいました。

そして自分は食べない直哉のためのパンを焼いていました。

直哉が出ていったあと、無言でキッチンに立つ優実を長回しで映し続けます。

優実に笑顔はなく、部屋はずっとうす暗いままです。

たったひとりのキッチンでの劇的ではない所作をミドルショットで長く見つめ続けるエンドシーンは観たことがありません。

彼女がパンと卵を焼くところを観客はずっと眺めているだけです。

けれどそれは、彼女が自分のために焼いたパンと卵なのです。

彼女は自分のために料理をし、自分でそれを食べました。

母が死に、父親のわからない子を宿し、大好きな直哉が出ていきました。

しかし優実は、泣き崩れるでもなく、手首にナイフをあてるのでもなく、パンと卵を焼いたのです。

直哉がいた時よりも彼女自身の顔になった気がします。

優実は、見失っていた自分を自分に取り戻したのだと信じたいです。

エンドロールの間もずっと優実を映し続けている長い長いラストシークエンス。

薄暗い中でひとりパンを頬張る優実を私は小さく祝福します。