映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「THE FIRST SLAM DUNK」 死の匂い


いま新しい表現の誕生に立ち会っているという喜びと戸惑いがある。

かぐや姫の物語」を観たときの衝撃がよみがえる。

それは新しい表現とともに、作品に強烈な”痛切さ”が流れているからだ。

どうしても描かなければいけない”痛切さ”があり、そのためには何としても新しい表現が必要だ。そんな相互関係が、この作品にも「かぐや姫の物語」にも感じられた。

「THE FIRST SLAM DUNK」という1本の映画には、何億もの”痛切な”線や色、音、アングル、タイミングが織り込まれている。

”痛切な”細胞たちがおのおの脈打って、有機的につながり、この世の新たな映画作品として躍動している。

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そしてこの映画で触れたいのは”死の匂い”についてだ。

動的な試合パートに対して、回想ドラマパートは静かだ。そして色調は暗い。喪服を着ているリョータの母に影が落ちて、黒に黒を重ねた色彩を観客に提示する。

リョータの母の実在感。動きを失った瞳、体のラインの緩んだ描き方、微かな顔のそばかす、体幹が乏しいような座り姿。

夫と長男の死に対してギリギリで踏みとどまっている人物を具現化していることに感嘆する。実写も含めてこれほど優れた人物造形は稀有だ。

母だけでなく、リョータもゾッとするくらい虚ろな瞳をしていて、彼にもまた死を感じる。

彼らが住むのは沖縄であるのに、その風景は鮮やかとは反対にあり、空が雲に遮られている。

リョータや母の後ろ姿が印象的に映し出される。彼らの背中に差す影まで丹念に描きこまれていて、彼らが動くと影も一緒に動き、影は彼らから決して離れようとしない。

沖縄のくすんだ空、死の匂い、虚ろな瞳。北野武の「ソナチネ」を観ていた瞬間に運ばれたりする。

ハッとするのは波打ち際の描写だ。透きとおる水。砂の粒度。波が引くときの動きの美しさ。

彼らの浜辺はあらゆる映画の中で最も美しく描かれているというのに、その美しさにリョータも母も気づかない。

ただ妹だけが死の影から逃れる意思を先んじて獲得し、彼女の屈託ない笑顔はリョータと母の手を取って明るい方へと引いているように見える。

リョータと母はバスケットボールの一戦を通じて、”死の匂い”を一片も寄せつけない光へ到達する。

そのカタルシスは、エンドロールのさらに後まで待つことになる。

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軽々におもしろいとか、感動したとか言えない。

動揺もしているし、戸惑っている。つまり畏怖だ。

そういう作品は得てして「あの作品がそれまでの映画を変えた」とのちに言われることになる。

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