映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」 指も自意識もないふたり

この人のように生きたいと心から思った。思うどころかそれは祈りに近かった。

山野井泰史(やまのいやすし)は、登山における世界最高賞に選ばれるクライマー。少年時代から山に憑りつかれ、ひとり世界中の絶壁にへばりつく。

50代の泰史は実にあどけなく、「次はあの山を登りたい」ということしか考えていない。それは他人との競争ではなく、内発的な動機だ。なぜ登りたいのかと聞いても、泰史はきっと答えられないんじゃないかと思う。むしろなんでそんな質問をするのかという顔をするにちがいない。

山以外の彼の生活は静かで、自然の一員のような暮らしぶりだ。畑を耕し、果物をもぎ、カメと金魚にエサをやり、釣ってきた魚をおろす。

この映画は夫婦の映画でもある。妻の妙子は泰史の隣にいる。彼女は泰史の先輩クライマーだった。ふたりは最小限の実用的な会話しかしないが、いつも手を伸ばせばふれられる距離にいる。

運命を信じてはいないが、それでもふたりはニコイチにしか見えない。親友のような、姉弟のような、同志のようなふたりだ。

泰史のように生きたいと祈るのは、彼に卑屈な自意識がないからだ。自意識がないから「山への夢」と「妻への愛」にまっすぐなのだ。

それをスクリーンで観ていると徹底的に打ちのめされる。こういう成功例が存在するのかと。夢も愛も幻想だと思っていたが、ちゃんとそれがスクリーンに映ってしまっているのだ。

ただ彼が夢と愛を獲得しているのは、逆説的だが夢とか愛とかくだらないことを考えてないからなのだ。「山に登る」「妙子といる」ということだけを過不足なく考えていたら、世界のクライマーになり、妻とのあたたかな関係に至っていたのだ。

ため息がでる。なんだってこんな純度の高い人間がいるのだ。自分の汚さばかりが際立つじゃないか。

泰史の山仲間はあらかた死んでいく。『ヒマラヤ最後の課題』と呼ばれるマカルー西壁はじめ8000メートル級に挑む彼らは次々と命を落とす。単独・無酸素・未踏ルートに挑み、誰に見守られることもなく死ぬ。

泰史も含めて山男たちは「死に場所」を探しているようにしか見えない。しかし、大自然に対する恐怖の中で、自分のポテンシャルを最大限発揮し、結果として大自然に抱かれて死んでいく彼らに焼けるような嫉妬を覚える。これ以上の死に方(生き方)があるだろうか。

妙子が映るたびに失礼ながら「ドラえもんだ!」と思った。妙子は手の指が全部なくて、鼻の先もない。丸い手と丸い鼻だからドラえもんでしょ。泰史との壮絶な登攀の末に手の指全部と鼻先を凍傷で失った。

妙子の瞳は美しく、話し方は素朴でやさしい。泰史が指3本の右手でクライミングの練習をするのを黙って見ている。その丸い手で皮から見事につくる餃子は本当に旨そうだ。

かつて泰史が命を賭して前人未到マカルー西壁に挑んだとき、彼は妙子の顔を見ることもなくきわめて雑に「行ってくる」と言い、妙子も「ん」と返しただけだった。かなりの確率で最後の別れになるかもしれないのに。

これを愛というのか、なんと言うのか知らないけれど、指の少ないこの夫婦は”貝”や”生死”のように「ふたつでひとつ」にしか見えない。なんだかこちらが悲しくなってくるほど眩しいふたりだ。

ナレーションはいつも映画で楽しませてもらっている岡田准一。どこか求道者のような彼が山野井泰史の半生を語るのはとても適任だ。

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