映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

小説「手」(山崎ナオコーラ) 社会なんかじゃ泣くこともできない

一人称による独白形式で書かれた小説。

25歳の主人公さわ子が「社会」という言葉を使うところが2箇所ある。

「私は大河内さんとそのあとも四回くらい、一緒に夕ごはんを食べ、食後に手を繋いだ。大河内さんと一緒にいるとき、私は非常に醒めている。それでも、社会を批評するために、おじさんを面白がりたいのだ。」

大河内という親の年ほどの男とつき合っていることは、さわ子が父との関係がうまくいってないゆえ、父性を求めるファザーコンプレックスと取ることも可能だが、彼女が「もう充分に、ロリコン文化の批評もやり尽くした」と語ることろがあり、日本の男たちの若さを愛でる異常さへの強烈な軽蔑と怒りも感じる。

こんな独白もある。大河内からストロベリー味のアイスを差し入れされた場面だ。

「ストロベリー味は、現実の苺とは似ても似つかないものだが、日本人が共通して持っている『お菓子の苺味」というものの、明るく薄っぺらい風味がして、頭を撫でられた気分になる。」

ストロベリーを男が夢想する「女の子」、苺を「現実の女性」と読むことができる。

またさわ子は大河内から可愛いと言われたとき、二十代後半の私に十代っぽいから可愛いとは失礼千万だ、おじさんになると女の人ときちんと向き合わなくてオッケーになるのか、と嘲笑し続ける件がある。

彼女はアイスを食べ終わるとそのカップを握りつぶし、さらにわざわざ滅茶苦茶にしてからゴミ箱に投げつける。

そして、もうひとつの「社会」。

「神田駅に着く直前に、ギュッと手を握り合った。手の形を覚えておこうと思い、私は森さんの指や爪をなぞった。これが社会なのだ。」

これは2歳上の森との別れの場面。森は電車内で泣いている。二股をかけた男が泣き、さわ子はこの場面含め一連の彼との別れの件で泣くことはなかった。一人称独白だから何を語るかは作者が意図できるが泣いたと明示されていない。代わりに森との別れの電話を切ったあとにこう独白する。

「電話を切ってベッドに寝転んで文庫本のページを捲る。しかし、文章が頭に入ってこない。生きていても小説を読むくらいしかすることがないのだが、読書をしていると、全ての読点の後に『死にたい』という自分の言葉が入ってくる。」

彼女が言った「これが社会」とは何だろう。

男ばかりが甘えていて、せいぜい手の形を覚えることくらいしかできないのが私の生きている世界だと諦観しているのか。

森はずっと泣いていた。彼女は小説の最後の一文まで笑っていた。

「社会」という言葉は、大河内であり、森であり、私である。もしくは、私たちが形作っている価値観や態度であると読めた。

痛烈で痛恨。

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