映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「恋愛の抜けたロマンス」 映画だって軽くて薄いほど価値がある

klockworx-asia.com


かるくてうっすい作品である。


『恋愛はしたくないけどぉ、さびしいからぁ、セックスはしたいんでぇ、デートアプリによってぇ、はじまるふたりの関係(^_-)-☆』

ナノ!!

かっるい!!

かるすぎる!

ナノかるぅぅぅぅぅい!

というわけで鑑賞中、「こ、これは月曜ドラマランドか」って腰抜かしたくらい、かるくてうっすい映画なのである。

月曜ドラマランド?!

若い人はお父さんお母さんに聞いてみよう!

しかし、私は批判しているのではない。

かるくてうっすいのは称賛されるべきものである。

本作品はとかくエクストリームな韓国映画において、半地下でも、エキスプレスゾンビでも、脳内消しゴムでも、タコゲームでもないのに、堂々と映画館で上映している点において革命的である。

いったい、いつからだろう。

映画に人生や哲学が描かれて当然となったのは。

スクリーンいっぱいにソンガンホやマドンソクなんておっさんが映ってこそ映画となったのは。

まったく鬱陶しい話である。

たかが映画じゃないか。

この存在の耐えられないかるくてうっすい映画には価値はないのか。

いや、ある!

電子機器も炭素繊維素材もコンドームも軽くて薄いほど価値があるのだ。

コンドームは極薄ほど単価が高いのだ。

念のため繰り返した。

映画もかくあるべきである。

「かるくてうっすい」ってみんなじつは大好きだろ。

クラスでモテるのも、テレビの人気者も、みんなそうじゃないか!!

えっ!!そうじゃないとは言わせねえぞ!!!

重くて厚い(暑い、熱い)オレは、昔から無視されながら歯食いしばって生きてます。

でね、特に主演女優チョンジョンソちゃんが演じる性欲モンスターはもう羽毛なみっす。

目がいいんだよね、本能的官能的なのよ、社会問題とか蹴飛ばしそうな目だもん(偏見)、茶髪とか似合うし、ペラペラ生地の服とかでも似合いそう(偏見)、素材の味がわからなくてジャンクフード好きそう(偏見)、イケメン好きそう(確信)。

そういう女子を男子はみんなで集まったときに「あの軽い女がさぁ」とか言ってディスるんだけど、実は大好きなんですよ(オレ調べ、もしくは、オレ)。

「バーニング劇場版」でもそうだったが、彼女は軽い感じの女をやらすと絶品である。 

「バーニング劇場版」での登場シーンのあの韓国ドンキみたいな店頭でのキャンギャとしての変な踊りのすさまじさ!

理性なんか残すような根性のねえ女優には踊れねぇよ、あの変な踊りは。

そりゃあ、あんた、あんなダンシングしてたらバーニングもされてしまうさ🔥

ああ、好きだ、チョンジョンソちゃん(非表示)。

凡百の女優には到底できない、ビッチ芸のできる彼女がスクリーンに登場するとオレの男心はムジュムジュするのでございます。

この映画が軽薄さの極北まで突き詰めたことで、むしろ一周まわって普遍的な人間真理が表出されてしまっているのがすごいところなのだが、それはチョンジョンソちゃんのセリフにあらわれている。

“強がるのは やめよう みんな 本当は寂しいでしょ”
(日本語訳「カンチ、セックスしようよ」) 

“人生の主役は私”
(日本語訳「『わたしは最悪。』にギザ共感」)

“私はもう恋愛なんて 感情労働はしないの”
(日本語訳「カンチ、セックスしようよ」)

つまり、人はセックスに余計なものを持ち込みすぎていないですか、どうですかみなさん!と言っているのだ。

人はセックスするのに、愛とか共感とか癒しとか痛みとか優しさとか持ち出しますけど、ホントにそれ要りますか?!

「今日のセックスは新鮮で美味しいんで、ぜひ何もつけずに召し上がってください」と人類に強烈な問題提起しているのだ。

やばい映画を観てしまった。

地動説くらいやばい天変地異な学説を主張している映画である。

それを証拠に百想芸術大賞でモガディシュなど強豪をおさえて脚本賞を見事獲得している。  

この作品がーーーー!?おえーーーー🙃

「セックスに愛は要りますか」をナノの軽さで描いた新機軸でござんす。

あれ?でも考えてみればAVが40年前からやってることでもある。

オレはその方面にとても詳しいのです。

三上悠亜にもカンヌ国際映画祭主演女優賞をぜひ!