映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「モガディシュ 脱出までの14日間」 私の中の”意識高い”を奪う映画

こんにちはノブです。

今日は7月1日公開の韓国映画モガディシュ」です。

1990年ソマリア内戦における韓国&北朝鮮の大使館員を描いた作品。

今日も映画評っぽくないですね。

気軽にお読みください!

mogadishu-movie.com

実話ベース。1990年のソマリア内戦における韓国と北朝鮮の大使館員たちの脱出を描いた作品。いわゆるポリティカルサスペンスであり、社会派ドラマである。

こうなるとオレの出番です。久米宏筑紫哲也で育ったオレは観に行くわけです。どうしたって、オレの中のじゃーなりずむ魂がうずくわけですよ。巨悪を眠らせないわけですよ。

そしたら、ひゃほぉぉぉぉぉい!!

多くの人が言っているように、外はカリカリでも、中はアツアツの「マッド・マックス」なわけですよ。本作を鑑賞した世界中の観客が後半シーンで「マッド・マックスじゃん!マッド・マックスじゃん!」と脳内で連呼していたと思うとなんかすげーおもしれーなー!

おもしれーなー!?

そう、おもしれーなーなんです。いいのか?ポリティカルサスペンス&社会派ドラマで「おもしれーなー」はいいのか。もっとこう「新聞記者」とかさ、「砂の器」とかみたいにおもーいくらーい気持ちにならなくていいのだろうか。

そういえば、「ホテル・ムンバイ」のときもそうだった。テロを憎む意識高い気持ちで観に行ったのに「こ、これはダイハードじゃん!!ダイハードじゃん!おもしれーなー」になってしまった。

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観客の立場から傍観するとソマリアの人同士で殺し合ったり、朝鮮同胞が対立するのがとても不毛で悲しく見えてしまう。客席という安全地帯にいるから、ムダでバカみたいだとさえ思う。そして内戦や内ゲバが最もおぞましいものだとの思いを抱く。しかし考えてみれば国籍を問わず人間同士が戦争するのも内ゲバみたいなものだ。他の生物から見ればおぞましい”尊属殺人”のようなものに見えるのかもしれない。

おぞましいと言えば内戦状況や対立におかれたときの子どもたちの様子だ。監督は意図して何度も子どものショットを入れ込んでいる。ひとつは銃を持ったソマリアの子どもたちのショット。嬉々として笑顔で銃を乱射する子どものおぞましさ。兵器や殺人に内省がない分大人のそれよりもおぞましく悲しい。子どもに銃を持たせ何の呵責もなく人を殺させるのが内戦であると教えられる。もうひとつは、北朝鮮の子どもたちが親の手で目を覆われるショットだ。韓国側の文化・情報に触れないようにするため目隠しのように目を遮られる。まるで目線を入れられた匿名の子どものような姿。情報と判断を奪われた子どもというのは、銃を持ったソマリア少年に劣らずおぞましく見える。

ラストの場面は切ない。両国の大使館員たちはソマリア内戦から脱出したものの、朝鮮半島の内戦(戦争)からは脱していないことが示される。両大使館の人々は、何事もなかったかのように降り立った空港で左右に別々に引き裂かれていく。

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おもしろく撮るのもたいがいにしてほしい。監督は「韓国のタランティーノ」と称されるリュ・スンワンという人らしい。すげーな。不要だな、この形容は。ああ、骨抜きにされた。オレの最後の”意識高い”が奪われた。オレはもう意識がない人だ。意識不明だ。意識不明ってなんだ。起きてないのか。寝てんのか。寝てんだな。リュ・スンワン監督のせいでオレの耳クソほどのかすかな"意識高い"さえ喪失してしまいました。