映画「リコリス・ピザ」 身も蓋もない自分をさらすため、全力であなたのもとへ走っていく
こんにちはノブです。
今日はポール・トーマス・アンダーソン最新作「リコリス・ピザ」です。
アカデミー賞でも3部門ノミネーションでしたね。
今日のは映画評でも何でもないのでどうぞ気楽にお読みください。
アラナはドンドンドンドンとノックしてゲイリーが玄関を開けるや否や「オッパイ見たい?」と第一声を発し、背中のジッパーをさげてゲイリーに向かって胸を披露する。ブラジャーもしていない。オッパイを見せるためにあえてして来なかったのか、そもそもブラジャーはしていないのか。
ゲイリーはオッパイを見た後そのまま「さわってもいいか」と聞く。するとアラナは豪快なビンタをゲイリーの顎に食らわせ、「また明日ね」と玄関から出ていく。
アラナとしては予定通りだったのか。エッチに発展する可能性は考えてなかったのか。それとも衝動的に前後のことなど考えていなかったのか。怒っているようだけど「また明日ね」ってどういうことなのか。ジッパーもあげずに出ていった。きっと帰り道でジッパーをあげるんだろうけど、どんな気持ちで帰るんだろう。ゲイリーは嬉しかっただろうか。オッパイが見られたことが嬉しかっただろうか。それともアラナが自分にオッパイを見せてくれたという特別感が嬉しかったのだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。この映画は青春のわからなさが弾けている。
男がオッパイを見たいと言う時の決意。女がオッパイを見せるときの決意。
自信があって堂々と振舞える男が「オッパイを見たい」と言うならそこにドラマはないし、誰よりもステキな胸を持っていてコンプレックスのない女が「オッパイを見せる」ことに飛び越える決意はない。
記憶というのは均質的ではなく、ほとんどのことは忘れ去ってしまうのに、特定の強烈な出来事だけは”垂直な記憶”として残っている。それなのにボクにはオッパイや初体験の記憶が垂直的に残っていない。気絶でもしていたんだろうか。粗相でもして記憶から抹消しているんだろうか。オッパイを初めて見た時のことより、その前のデートで彼女の襟ぐりから胸元がやたら見えて発狂しそうだったことの方を色鮮やかに覚えている。
オッパイを見たいと言った時のこと(もしくはオッパイを見せた時のこと)を人々は記憶しているのだろうか。そのことについて徹底的に書かれたサイトやドキュメンタリー映画があったらいいのに。なにを言ってるんだオレは。
唯一印象に残っていることと言えば、そのコのオッパイにはかすかな産毛があったことだ。それまでエロビデオではたくさんオッパイを見てきたが、オッパイに産毛があるなんてことは知らなかった。できればオッパイは形よくつるんとしていて、乳首はかっこよく立っていてほしかった。
しかし現実は違う。現実も人間もそんなにつるんとしてないしかっこいいものではない。でもつるんとしていなくてかっこよくない世界と人間を愛することができた人から幸福になれる気がする。
この映画の青春も、つるんとしていないしかっこいいものではない。特に主人公ふたりの外見がいい。実際はビューティーなのかもしれないがそんな風に見えないのがいい。
自分なんか性格もカラダも他人より劣っているという苦しみを抱きながらも、恋愛の甘ったるい衝動に背中を押されて一線を超える瞬間にこそドラマがある。
他人にカラダを開くということ。すなわち身も蓋もない心をさらすということ。オッパイをみせるために全力であなたのもとに走っていくということ。