映画「PLAN75」 人間を人間たらしめているのは、共有ロッカーをていねいに拭けるということ
こんにちはノブです。
今日取り上げるのは早川千絵監督の長編第一作「PLAN75」です。
いってみましょう!
この映画には、我々観客が河合優実に真正面から見つめられる瞬間があります。
あの眼差しは誰のものなのか。
河合優美本人の目なのか。
成宮という劇中人物の目なのか。
早川監督の目なのか。
それとも我々観客を代弁している眼差しなのか。
身動きの取れない観客は河合優実にじっと見つめれます。
目をそらすことはできません。
彼女の目は、我々観客を批判しているのでしょうか、それともこれはあなたの物語だと警告しているのでしょうか。
この映画はスクリーンから匕首を突き付けてくるような類のものです。
ドキュメンタリーではありませんが、それを凌駕するほど現実世界の地続きとしてつくられている映画であり、誰もが関係者である題材です。
他の優れた楽しい作品と同列に並べることが難しい我々に必要必須の作品です。
生産性を物差しにして人間の価値を定めたプラン75。本質的な議論をしないで制度を導入し、同調圧力で人に死を迫る点はいかにも我が国が好みそうなものです。
たとえ社会維持に必要な制度でも、これを"おぞましい"と感じる自分の感性だけは最期まで失いたくありません。
社会的に必要とか、正しいとか、そんなものは大抵ロクでもないのです。ナチスは「民族純化」と謳ってユダヤ人を殺し、遺伝性疾患のある人をも迫害しました。これとプラン75は同じです。
共生ができない社会や国なんて、ぶっ壊れてもらって私は一向に構わないです。国家は構成員がいくらか死のうがゴーイングコンサーンが大事なのでしょうが、こっちだって生きる尊厳より大事な国家などありはしません。
磯村勇斗や河合優実が演じた人物は制度のもとで働きながら、制度を受け入れたくないと心が叫びます。妥当な制度だと考えると同時に、何か違うと心が叫び、そして制度に反する方向に体が動こうとしたがります。
倍賞千恵子が演じる高齢者。彼女は職場を追われる最後の日、自分が使ってきたロッカーをていねいに拭き「お世話になりました」とロッカーに頭を下げます。最後の日にロッカーを拭いたんです。同じように施設に送られる日、彼女は出前の寿司桶をていねいに洗って拭きました。最期の日に寿司桶を拭いていたんです。
人間を人間たらしめているのは、みんなのロッカーをていねいに拭けるということです。
社会を社会たらしめているのは、生産人口による富の拡大かもしれません。プラン75のような短絡的な”踏み絵”を実施するのは、国家としての資質がないか、手抜き国家のやることです。さよならです。犬に食われろです。犬も召し上がらないでしょうが。
あまりに素晴らしい映画であったため、作品の特長まで言及する余裕がありませんでした。映像美、演出姿勢、フランスの協力、俳優陣について芸術性の高いものです。早川監督という才能が映画界に出現してくれたことは、重い題材とグレーの色調である本作とは対象的に、軽やかで明るい祝祭的な出来事です。