映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「気狂いピエロ」 みつかった 何が?自由と刹那が 水平線に躍るワンピースが

こんにちはノブです。

今日取り上げるのは、当時「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言われた新潮流、ゴダール監督の「気狂いピエロ」です。

影技法やカット編集など映画に革新をもたらしたゴダールの代表2作品が「2Kレストア版」で劇場にかかっております。

きぐるいではなく、きちがいピエロと読みます。

劇場でもばっちり「きちがいピエロ」とアナウンスしてました。

さすが福岡の映画文化を支えているKBCシネマです。

では行ってみましょう!

katte-pierrot.2022.onlyhearts.co.jp

ヌーヴェル・ヴァーグの奇跡的傑作

35歳のゴダールが、長編10作目で到達したヌーヴェル・ヴァーグ波高の頂点! 自由!挑発!疾走!目くるめく引用と色彩の氾濫、そして饒舌なポエジーと息苦しいほどのロマンチスム。『勝手にしやがれ』以来の盟友である撮影のラウル・クタールゴダールのミューズでありながらゴダールと離婚したばかりのアンナ・カリーナ、『勝手にしやがれ』で大スターになりこの映画でゴダールと決別することになるベルモンド。各自がキャリアの臨界点で燃焼しつくした奇跡的ともいえる作品。 

 

STORY

パリで金持ちの妻との生活に辟易している男。偶然ベビーシッターにやって来たかつての恋人。彼女を家に送り一夜を共にするも、翌朝知らない男の死体が転がっていた。事情の分からぬまま、彼女の兄がいるという南仏に向かう…。

 

ゴダールは難解なのか?!

たしかに難解な作品ではあります。

「物語性」を崩しにかかっていて映画の革新に挑んでいますし、作品内では多くのテクストや絵画や時代背景(ベトナム戦争など)からの引用に溢れていて目まぐるしい世界に放り込まれます。

引用でもっとも象徴的に使われているのはランボーの詩です。

 

「みつかった。

 何が?

 永遠が。

 海にとけ込む太陽が。」

 

ジャン・ポール・ベルモンド演じる主人公やヒロインのアンナ・カリーナが何を考えて行動しているのかは特に観客に提示されません。

だから彼らの動機が見えないまま観客はこのふたりにつき合い続けないといけません。

赤・青・白のトリコロール配色

■羨望の逃避行は死の匂いがする

無軌道に逃避行する男女。

男は本を読み、思索に耽って、ノートに記述をします。

女は着替えがないと嘆きながらも、元気に歌い踊ります。

ふたりはそれぞれの車から半身を乗り出してキスをします。

この映画は、ふたりの男女がとにかく逃避行します。

 

 何から?

 社会や秩序から。

 あやふやで猥褻な世界から。

 

着の身着のままで手を取り合って駆けていくふたり。

行先は南仏だというだけ。

金はない。

明日のことも定まっていない。

それなのに置いてきた妻子の心配もしないし、光熱費の支払いのことも心配しないで、燦燦とした陽の光のもとでじゃれつくふたり。

オレは男だからやはりアンナ・カリーナがやけに眩しく見えます。

ピンクのワンピースからのぞく素肌が素敵です。

もちろん胸元だって気になります。

好きな女とふたりきりで過ごすジャン・ポール・ベルモンドがうらやましいです。

そして同時にこうも思います。

スマホからも、会社からも、家族からも逃げることはできないはずだ。

ふたりきりで生きられるように人間はできていないから、きっとこの眩い映画には別れか死が待っているはずであると。


■「気狂いピエロ」を観た自分と観ない自分と

この映画は難解であるとは思うのですが、それは自分の表層がそう言っているのだと思います。

スクリーンでいま起きていることを言語で要約しづらいから難解なのです。

もしくは、もしこの作品のプロットを自分に預けられたとしても、決して自分はこのような瑞々しく奔放な映画に仕上げることはできないだろうと、ゴダールとの断絶を感じるのです。

しかし表層ではなく、自分の奥底はどう反応しているのでしょうか。

言語化できるような感想は持ち得ませんでしたが、ふたりの男女は間違いなく私のなかを通過していきました。

私のなかを、ふたりが通過した人生と、通過していない人生には違いがあるはずです。

ふたりが通過したことで私の奥底は、何かをみつけたはずだからです。

 

「みつかった。

 何が?

 自由と刹那が。

 青い水平線に躍動するワンピースが。」