映画「マイスモールランド」 監督が過酷なふたりに贈った美しい構図
こんにちはノブです。
今日はご覧になった方の絶賛や真摯なコメントが印象的な「マイスモールランド」です。
いってみましょう!
印象的なポスター
劇場ロビーにこの赤い縁取りのポスターが張られたときから釘付けになりました。
画角いっぱいの女の子の横顔。
日本人離れした目鼻立ちで、高校の制服を着ていることが際立つ。
ウェーブした褐色の髪が自然な感じでなびいています。
夕日に照らされ、何を見つめているのか。
彼女は、喜んでいるのか、それとも憂いているのか。
少し粒子の荒い写真は、この肖像ををまるで絵画のように見せます。
埼玉に住む17歳のクルド人サーリャ。
すこし前までは同世代の日本人と変わらない、ごく普通の高校生活を送っていた。
あるきっかけで在留資格を失い、当たり前の生活が奪われてしまう。
彼女が、日本に居たいと望むことは“罪”なのだろうか――?
難民についての嘘と臆病
今年「牛久」というドキュメンタリー映画を観てから、このテーマに関して心の表面が粟立つようになりました。
なぜなら難民認定の実態と入管での監禁は、日本の嘘と臆病が凝縮していると思うからです。
日本が国際的には難民保護の姿勢を取りながら、実はまったく正反対のことをしている。
それはこの国が建前という嘘をつくことが当たり前になってしまっていることと、外国人と交わったら日本の自我を保てないと怯えていることをあらわしていると思います。
同じく今年公開されたアメリカ映画「ブルー・バイ・ユー」で提示されたアメリカの状況もやるせないものですが、さらに日本では外国人に対して排除だけでなく残虐性が見え隠れします。その残虐性は、スリランカのウィシュマさんが名古屋入管に収容され亡くなった事件のようなところに露見します。
外国人を「毛唐人」といって忌み嫌い、そして戦慄していたころからこの国は変わっていないのだと思い、恥ずかしくて身体の力が抜けてしまいます。
監督がふたりに贈った美しい構図
すこしこの映画の美しさについても語りましょう。
川和田恵真監督は、終始ドキュメンタリーを彷彿させるような撮影をしていました。
キャメラがときおり揺れたりしますし、被写体の構図も気張ったものではなく自然なものでした。
主人公サーリャとバイト先の同僚である聡太。
高校生のふたりが現実の辛苦を感じながらも、束の間の休息でおとずれた渓流。
ふたりだけの時間が流れていたとき、そこで突然画がキマります。
渓流を背景に正確なシンメトリーで立つサーリャと聡太。
突如あらわれた1枚の絵のような美しい構図にハッとします。
完璧な構図のなかで見つめ合うふたり。
ふたりの距離感がもっとも近くなった瞬間でもあります。
どちらかがわずかに体を相手方に傾ければ口づけをかわせる近さ。
観客の誰もがこの劇的な構図の中で口づけをかわすことを想像したでしょう。
健気なふたりにそれくらいのことがあってもいいじゃないかと、思わずにはいられないからです。
スクリーンに映っていなくても
しかし結局それはありませんでした。
ないままにこの美しい構図は解かれました。
なかったけれど、きっと多くの観客がふたりが口づけした世界を見たはずです。
スクリーンに映っていないものを、スクリーン越しに観ていたという「映画的」というほかない刹那でした。
口づけはかわされませんでしたが、それはどちらでもよかったのかもしれません。
サーリャも聡太も観客も、確かなものを感じたからです。
まるで口づけをしたかのように、いやそれ以上にふたりの心が寄り添ったのは確かでした。
この美しい構図を伴うショットは、監督から過酷を生きる若いふたりに贈られたプレゼントようでした。
はたしてこの作品に安易な救済はありませんでしたが、クルド人である自分を「ドイツ人」と偽る切ないサーリャに対して、監督は決して見捨てず見守り続けるという強い意思を示したように感じました。
最近の映画では「牛久」「ブルー・バイ・ユー」「ウエストサイドストーリー」「イン・ザ・ハイツ」にも通じるものがあると思います