映画「エレファント・マン 4K修復版」 死にたい気持ちと生きたい気持ち、アンビバレントにスクリーンを見つめるということ
19世紀のロンドン。優秀な外科医トリーヴズ(アンソニー・ホプキンス)は、見世物小屋でエレファント・マンと呼ばれる青年メリック(ジョン・ハート)と出会う。
極端に身体が変形したメリックの姿を目にしたトリーヴズは、大きな衝撃を受け、彼を研究対象として病院で預かることに。
当初は物も言えず怯え続けるメリックを誰もが知能も低いと思っていたが、ある日、知性溢れる穏やかな性格であることが発覚。その後、新聞で取り上げられたメリックの元を舞台女優のケンドール夫人(アン・バンクロフト)を始め、上層階級者が訪れるようになる。
トリーヴズは自分が形を変えた見世物小屋の興行師と同じなのではないかと悩むが……。
自分がジョン・メリックなら生きていたいか
デイヴィッド・リンチの名作を初めて劇場で鑑賞して、終始居心地の悪い気分でいました。
作品は抜群にすぐれていて、断然目が離せないものでした。
エレファント・マン=ジョン・メリックが素顔を隠す頭巾に開けられた四角い穴。
その穴がアップになっていって、虚ろな闇に吸い込まれそうになる大写しのショット。
外科医トリーヴズ(アンソニー・ホプキンス)が身体の変形したジョン・メリックを初めて見たとき、静かに涙するショット。
こうしたショットだけでもデイヴィッド・リンチの才能は恐ろしいくらいでした。
また、これが実話であることにも驚愕でした。
頭巾の形状、身体の有様、彼が聖書を諳んじるところ、ほぼ事実から再現されています。
作品に強烈に引き付けられながら、しかしこれをどう観ていいのかずっと定まらずにいました。
単純な「感動のヒューマンドラマ」とは思えなかったし、しかし「監督であるリンチの猟奇趣味」とも思えませんでした。
見世物小屋の興行師や下層階級の人たちが、ジョン・メリックに対して搾取や差別したことを批判することはできます。
しかし、時代や形は変われどこうした「弱者をつくる」という人間の醜い部分は普遍的なものとも思ってしまいます。
医師や皇族、女優たちのジョン・メリックに対する親切も、トリーヴズが述懐しているように「興行師と同じように学会や社交界で彼を見世物にしているのではないか」と感じました。
しかしながら、たとえその行為が打算であっても、虐待するよりも部屋や食事を与えることはよっぽどいいことではないかと思う自分もいるのです。
だいたい自分自身、打算のない親切をこれまでどれくらいしてきたかといたたまれない気持ちになります。
そしてなによりこの命題に答えられないからこそ居心地が悪いのです。
自分がジョン・メリックとして生まれてきたとき、自分はどうするのか、どうしたいのか。
ジョン・メリックは皆から親切にされたとき、実にうれしそうでした。
医師トリーヴズには繰り返し感謝を述べて、そしてトリーヴズを「友よ」と呼びました。
見舞いに訪れた女優のケンドールにキスをされたとき、彼は生涯で最も幸福な瞬間だったでしょう。
彼の過酷さを観てきたので、束の間の幸福に救われた気分になりました。
しかし、これらはすべて人々の「親切」です。
親切だけで人はこの世に留まる選択ができるのでしょうか。
彼はずっと会えていない母の写真を離さず持っていました。
おそらく母だけが「親切」ではなく、「無条件の愛」をくれると期待していたからではないでしょうか。
もし自分がジョン・メリックだったら生きていたいだろうか。
それがわからないから、ずっとスクリーンを見つめながらとても困っていたのです。
「だったらオレとセックスしろ」
劇作家の松尾スズキ氏に「ふくすけ」という作品があります。
おそらくこの作品は、「エレファント・マン」にインスパイアされた部分があると思います。(劇中で「エレファント・マン」の楽曲も使用されています)
ふくすけとあだ名をつけられた頭部が肥大した異形の男は、これまで阿部サダヲ氏らが演じてきました。
エレファント・マン同様に見世物小屋のシーンがあり、ふくすけは観衆に向かって舌鋒鋭くこう言い切ります。
生まれてこない方がよかったとき人はどう生きるか。
それでも宗教も、未来も、来世も信じられないとき人はどう生きるか。
俺がいつも考えているのはあんたらの親切からどう身を守っていくかってことさ。
それでもまだ俺に親切にするか。
親切にするか。
だったらオレと結婚してくれ。
オレとセックスしろ。
オレとセックスしろ。
オレとセックスしない奴には親切にさせない。
勇気づけられもしないし、はげまされもしない、なんにも感動もしない。
だってさ 俺が生きるってそういうことでしょ。
アグネスチャン、黒柳徹子、オレとセックスしろってそういうことでしょ。
荒んでる?オレが?ちがうね!
オレほど建設的な人間はいなーい。
「そういうことでしょ」と自分も思います。
ジョン・メリックやふくすけに涙していいのは、彼の人生を肩代わりしてもいいとまで考える者だけだと。
ジョン・メリックを見世物にして稼いでいた興行師のもとには助手の少年がいます。
少年は興行師に支配されながらも、ジョン・メリックにいつも同情的で、だからと言ってなにかしてあげられるわけではなく、いつも困った顔をしていました。
自分も終始そんな顔をしてスクリーンを見つめていたのだと思います。
少年役のデクスター・フレッチャー(2018年「ボヘミ
アン・ラプソティ」の製作総指揮を務めることになる)
憐憫の涙を流すには、あまりに自分は無責任な立場だと思うからです。
アンビバレントにスクリーンを見つめ続ける
自分を少し救ってくれたのは映画評論家の高橋ヨシキ氏が語ったとされる以下の言葉です。
映画評論家の高橋ヨシキ氏
本作(「エレファント・マン」)で描かれていることは複雑で単純に断罪できるも
のではなく、常に‟アンビバレント”な感情を抱く作品だ。
アンビバレント(相反する感情が同時に存在するさま)
まさに自分は上映中にアンビバレントだったのです。
自分には、興行師の卑しさがあり、同時に医師の親切心がありました。
自分には、上流階級の打算があり、同時に下層階級のしたたかさがありました。
自分には、もしジョン・メリックだったら、すぐに死にたい気持ちがあり、同時にそれでも生きていたい気持ちがありました。
善と悪、内面の美と外見の美、生きることと死ぬこと。
二元論のどちらかに立つことで確かに気持ちはすっきりします。
自分は、「生きるべきか死すべきか」や「愛すべきか唾棄すべきか」に囚われていましたが、そのような都合のいい結論には至らないのでしょう。
だから苦しいけれどアンビバレントにスクリーンを見つめ続けたことは結果的に正しかったのかもしれません。
生まれてしまったのだから、出会ってしまったのだから、ジョン・メリックやトリーヴズたちはアンビバレントであることを受け入れていた。
わたしがこの映画と世にも過酷な彼の人生から学ばせてもらったことは、安易な結論を求めず、この居心地の悪いアンビバレントな状況に身をゆだねる謙虚さとしたたかさを持ち続けるべきだということだったのかもしれません。