映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「余命10年」 原日出子は、小松菜奈の鼻水を拭わず、次の自分のセリフを言った。

とても楽しみにしていた映画でした。


監督は藤井道人
主演は小松菜奈
出演者に奈緒黒木華三浦透子松重豊リリー・フランキー
そしてこのチラシ。

ざらついた画質と小松菜奈の表情。

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人が死ぬ、すなわち人が生きるを描いた滋味あふれる作品を期待していましたが、世界が本来持つ複雑さを排して短絡的に加工した世界観が提供されたように感じました。

人物の心情はわかりやすくて鑑賞はしやすいのですが、我々の生活と地続きになっているという実在感が乏しく、説明的で観客が主体的に考える余白が与えられていない印象でした。

不思議なもので、映画冒頭の桜のショットから嫌な予感がしました。

桜で始めていけないわけではないのですが、なんだか凡庸で記号的なショットに思えました。

画面が引いていくと病室になりました。

病室の壁には子どもが描いたであろう絵が貼ってありますが、その絵に固有性はなくてやはり記号のように『子どもがママに描いたものです』というだけのものでした。

この病室の大きな窓から豪勢な桜を眺めることができます。

病室は大きくて完璧なくらいきれいで、そこには大衆や病院食や尿の匂いが感じられず、病への恐怖や疲弊を加工処理で消してしまったような情景でした。

病室にいるふたりの患者は髪も肌も整い身ぎれいで、のぞき込んでいるビデオカメラに映る子どもの入学式はまるでなにかのCMのような典型的な風景で、一方の患者から小松菜奈に向けて「まつりちゃん、精一杯生きてね」とただただフィクションな言葉が発せられました。

その後は「なぜ自分は心揺さぶられないのか」についていろいろ考える2時間でした。

病の小松菜奈が太い鼻水を出して、母役・原日出子に泣きすがったシーンのとき、原日出子が母としてその鼻水を素手で拭ってやってくれないかと祈りました。

演出でもいいし、アドリブでもいいでもいいから、一カ所くらい実在感を感じさせてほしくて。

そうすれば「そうだよ母親だもんな、子どもの涙や鼻水をああして素手でなんとも思わず拭ったりもするよな」と共鳴し、私はこの映画と握手できると思ったのです。

フィクションという泥沼に、リアルという花が咲く瞬間がみたかったのです。

 

生理も性欲も業も経済もまるで感じられないこの映画の中で、小松菜奈の鼻水はまぎれもなくリアルな鼻水であり、つくりものでない生理現象でした。

しかし、原日出子は、小松菜奈の鼻水は拭うことはなく、次の自分のセリフを言ったのでした。