映画「ドリームプラン (原題キング・リチャード)」 愛とさえ言えばいいのか
鑑賞中も鑑賞後も自分の中で考察が渦巻く映画だ。
リチャードは、史上最高のテニスプレーヤーであるウィリアムズ姉妹を育て上げた男。
彼の計画と実行、それから差別や迫害において社会とたたかったことは賞賛されることだ。
しかしながら、私個人にとって、リチャードはとても恐ろしい男に映った。申し訳ないが、その思想と支配欲において不気味さを感じる。
私にとって恐ろしかろうが気味悪かろうが、これはリチャードの人生であり、事実に基づくものである。
ただ私自身のセンサーは、妄信的で他者を受け入れないリチャードには、関わるな議論するな逃げろとけたたましく鳴る。
またそれと裏腹に、苛烈な環境下で娘二人を頂点に立たせるには、リチャードの狂気が絶対に必要だと理解する部分もある。プロスポーツはきれいごとで勝利できる世界ではないし、社会は黒人に対してまったくフェアで優しい世界でない。
リチャードに共感はしないが、リチャードを否定できない。スクリーンを見つめながら私自身の思念がグルグルと止まらない。
意地悪く表現すれば、たまたま成功した危険な実験を見せられていると言える。リチャードというマッドファーザーの最大の成功は、「異を唱えない娘たちを育てた」ことだ。
https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/g38978843/born-at-toxic-family-220208/
一家の信仰する宗教は厳しい家父長制と言われていて、それがリチャードの独善と強く結びついたとも見える。
映画でのウィリアムズ姉妹は笑顔が可愛く、屈託ない。彼女たちのテニスシーンは圧巻で映画的な幸福に溢れる。
しかし、彼女たちの描かれ方は、本当にこれでよかったのか。
映画を観ながら、いつしか私の思考は変なところへ運ばれていく。私は「北九州監禁殺人事件」を知ってから、人間が人間を支配するということに強烈なアレルギーを抱くようになった。人間は、恐怖や権威の前で理性も人間性も簡単に破壊されてしまう。親殺し子殺しを指示通りやってしまうし、殺されるほどの虐待を受けているのにカギのかかっていないドアから逃げることができなくなる。この事件を知って、どんなに愛情や大義があっても、「心を身体を支配されること」が強烈な嫌悪になった。むしろ愛情だの、大義だののせいで、異常な支配が成立してしまうのだとも思う。
偉大なテニスプレイヤーとその父を前にして、そのようなことを想起してしまうのは申し訳ないのだが、ごく個人的な思考の流れとして、そういう遠く遠くまで思念が運ばれていったりした。
いや、ウィリアムズ姉妹本人たちが納得しているならば、それはスパルタでも支配でもないのかもしれない。
そうだ、彼女たちの活躍に多くの人たちが励まされたのだ。
勝者や天才は常識的な物差しではかれるものではないのだ。
でも、でも・・・・
少なくともタイトルはキング・リチャードとした方が作品の意図をより表してると言えるだろう。
渦巻く考察を引き出す映画だ。つまりとても映画としての意義に溢れている。