映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「由宇子の天秤」 監督の観客への信頼

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「由宇子の天秤」はエンターテイメントで、ミステリーで、人間ドラマな作品です。


「正しさとは何なのか」というコピーがついてますが、社会的正義を描いたものではないと思います。手持ち長回し劇伴なしの映画なので、まるでドキュメンタリー映画を観ているような錯覚を覚えます。しかし、これはもちろん監督の意志が込められた純然たる劇映画です。

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主人公の由宇子はドキュメンタリー監督という設定で、ある自殺事件を追っています。彼女はなかかなの働きマンであり、美人で気風のいい魅力的なひとりの女性です。しかし、彼女が正義の人というわけではありません。


冒頭のシーンは、由宇子が被害者家族に取材をしていているところから始まりますが、ドキュメンタリー監督として劇的な映像を求めているようなうさん臭さが早くも仄かに見えてきます。その後の加害者家族をカメラ前に引っ張り出す様子も誠実そうに見えながらも巧妙ですし、禁止されている場所での撮影なども強行していきます。彼女は正義の人ではなく、作品至上主義の仕事人です。そしてもちろん創作活動は生活の糧であるという側面も持っています。テレビ局側から歪んだ編集を強いられたときも不服を表しながらも従っています。


由宇子はひたすら働き、ときに揺らぎ、金銭を求める人間です。彼女なりの倫理や価値基準は持っている。これは我々の日常と一致します。我々もできれば正しく生きたいと願い、ときに席を譲ったり、ときに食うためにはきれいごと言えるかと安物を売りつけたりする毎日を送っている。由宇子は我々同様に聖人君主ではないんです。


この映画が抜群におもしろいのは、由宇子が家族として巻き込まれてしまったある事件に対してどういう判断や接し方をしていくのかを、観客として固唾を飲んで見守っていくところにあります。饒舌を排した骨太な脚本は、由宇子が今なにを考えているのだろうかと観客をひきつけて離しません。由宇子が事件の当事者である高校生の萌に示す親切。それはどこまでが優しさで、どこからが打算で、どのあたりが良心の呵責なんだろうと想像するのが最高に楽しい。そして真犯人は一体誰なのか、萌は果たして本当を言っているのか、萌の父親はいつ狂気をむき出しにするのか。こういうサスペンス要素がグイグイと推進力となって2時間30分とは思えない体感を与えます。

 

この作品は映画好きな人が愛する映画という感じがします。それは監督の観客に対する信頼感があるからだと思います。製作陣は野暮な説明演出を排して、映画表現を観客に預けてくれます。映画を観ることの本質的な幸福をこの作品は提供してくれます。


#由宇子の天秤