映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「空白」 あまたの演出家から愛される演劇界のエース

古田新太は劇団新感線のトップであり、あまたの演出家から愛される演劇界のエースだ。

劇団の代表作「髑髏城の七人」では主役の捨之介を演じ、華麗な剣さばきを披露する。

軽妙洒脱な捨之介が、唯一気持ちを見せるシーンがある。

その場に駆けつけることが遅れて盟友を救えなかったところでこうつぶやく。

「俺はいつも遅すぎる」

https://youtu.be/oS6GEzULbPM

www.vi-shinkansen.co.jp

 

冒頭。

海と光と清らかな音楽が、

これからの不幸を知らない人物たちを包み込む。

彼らにこの光はあまりに眩しすぎる。

 

娘役・伊東蒼の「薄い」存在感の大きさたるや。

ほとんど言葉を発せず、自己主張せず、しかし儚げな存在感を放つ。

だからこそ衝撃的な死の痛ましさと世界の残酷さが際立つ。

 

不幸な事件で娘を亡くした添田古田新太)。

それに関わったスーパー店長の青柳(松坂桃李)。

 

本来これほどの境遇の人物は同情に値するが、それぞれが受け入れがたい負の側面を抱えている。

ゆえに観客であるわれわれはどちらにも感情移入できない。

さらに世間、学校、マスコミの卑しい姿が強調される。

 

人と社会の暗渠。

それを顕すのに、世界というキャンバスに黒い絵の具を丁寧に塗っていった映画である。

監督は手綱を緩めず、共感を許さず、救済を与えない。

私たちはこの暗渠をどこまで連れていかれるんだ。

こちらまで黒く染まってしまいそうだ。

そんなふうに耐える時間がぐーーーーっと続く。

f:id:imai-nobuaki:20211002142037j:image

𠮷田監督は、この作品を完全に支配していた。

監督が見せたい世界のあり様を最適なカットでもって観客に提示する。

醜悪な世界像を精緻にこちらへリーチしてくる監督の技術に驚嘆する。

 

黒い絵の具は幾重にも重ね塗りされていく。

そうしてそれはまるで漆喰のように分厚くなった。

その時だ。

 

添田の娘をはねたドライバーの母親(片岡礼子)が、

黒い漆喰と頑迷な添田の心を穿つような行動をとる。

 

母親の言動を理解できるかと言われたら、それは正直わからない。

最愛の娘を亡くして、他者を恨まず自分を責め不在の娘だけを抱きしめ続ける。

人間にそんなことができるのだろうか。

わからないが、片岡礼子の心の深いところから汲んできたような慟哭とも言える演技を前にすると、

もしかするとそういうこともあり得るのかもしれないとしか言えなくなる。

そして、そんな彼女に対峙するときの添田である古田新太が何も言わないのがいい。

何も言わないが、表情の奥が微かに揺らいだように見えた。

 

片岡礼子の乾坤一擲を起点にようやく地殻変動が起きる。

添田は美術部だった娘の絵筆を取り、初めて娘をわかりたいとに思う。

それから前妻に頭を下げたり、部下(藤原季節)を前にして照れたりする。

 

「みんなどうやって折り合いをつけてるのかな」と車窓から外を見やる。

いつも海辺は光に溢れている。

仏壇に添田が供えた小さな箱が映される。

 

そしてスーパーを閉店した青柳のもとにも焼き鳥弁当の神様が訪れる。

 

ずっと人物たちに辛辣だったこの映画の変化を、私たち観客は祈る気持ちで見守る。

映画の神様は彼らを許してくれる救ってのだろうか。



ラスト。

古田新太が刀を抜いて、暗幕をバサッと切り落としたかのように錯覚した。

やはりここでも言葉はない。

ただ古田新太演じる添田がダッと小さく動いて、自身のヘタな絵を凝視しただけだ。

その動きで、スクリーンに閃光が走った。

当代随一千両役者の面目躍如。

 

吉田監督が一貫して黒く塗ってきた世界。

そこにあえて残されたわずかな空白。

そのキャンバス地の白さは眩しい光にさえ見えた。

添田が遅すぎて父になった。

それを希望と呼んでいいのだろうか。

希望と呼ぶにはあまりにその光は一瞬だった。

しかしそのはかない閃光を見るために、私たちは映画館の暗闇に身を沈めるのだ。