映画「母性」 母を捨てよ、家を出よう
母性。
それはそもそも備わっていると考えていいものか。
いつまでも娘でいたい母親を戸田恵梨香、母の期待に応えたい娘を永野芽衣が演じる。
戸田恵梨香が演じたルミ子の”大好きな母のようになる”との妄信的マインドセットを見ていると、それはほとんどサイコでどうにも手がつけられない気持ちになる。
ルミ子は男が描いたバラの絵を暗くて好きではないと思ったが、母がその絵を称賛するので自分の意見を殺して母と同化してしまった。母と違う感情を抱く自分がゆるせないと、自己を握り潰した。そして絵を描いた男と結婚するという仄暗い人生がはじまる。
一方でルミ子の義妹である山下リオは危なっかしくも出奔して母・高畑淳子を断ち切り、穏やかな暮らしを獲得していることが示唆される。そして残された高畑淳子の心は荒廃する。
私という人間は母の一部であり、娘もまた私の一部である。母の肉体から母の養分を分け与えられ、母の肉体からこの世に逃げ出してきたのだ。
その事実を改めて考えると誠に不思議な感覚になる。
母が持ち得る子どもへの特段の優しさと特段の苛立ちを母性と言うのだろうか。
いつでも母のあたたかさに帰りたいというまるで獣ような欲望を子性とでも言うのだろうか。
母への深い感謝と、母のような優しい人になりたいという憧れ。
それを子どもは一度握り潰し、高く高く放物線上に投げる。そういう通過儀礼が必要なのかもしれない。
それで子どもは親とは違う自己を獲得できる。
無惨に投げられた愛の軌道を見つめながら母は泣くかもしれない。
しかし、そうしないわけにはいかないだろう。私はあなたから遠くにいるが、遠くに来たことで私の生を見つけたよと母に手紙を書くしかない。
ー--
20代のとき同棲していた彼女に私が驚いたのは彼女が母親と四六時中電話をしていることだった。
なにか話しているわけでもなく、スピーカーにして1時間でも2時間でも繋いだままにしているのだ。
互いのテレビの音や生活音や咀嚼音を共有している。
私は、愛憎が捻じれて解けなくなったように見えるこのふたりの関係の”正体”を見た気がした。
それでいて彼女の母は何も知らないのだ。彼女がとっくに銀行員などやめてしまっていることを。
それでいて彼女は知らないのだ。彼女の母が私のところに頻繁に君の相談で電話をかけてきていることを。
彼女の母は全身全霊で娘を育ててきたし、彼女もまたその全身全霊を十分理解している。これも”母性”、そして”子性”とでも呼ぶのだろうか。
#港かなえ
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#大地真央
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#山下リオ
#映画好きと繋がりたい
#読書好きな人と繋がりたい
映画「あちらにいる鬼」 オレの妻
寺島しのぶと”これから一発やるぞ”というときに男が口にした対照的なふたつのセリフ。
「オレはあんたを抱きに来た」(豊川悦司)
「ああ、エサの時間か」(高良健吾)
まさに男女のセックスをめぐるビフォア・アフターだ。トヨエツはホテルのドアをガチャリと開け、いきなり寺島しのぶに「お前を抱く」と宣言し、一方で長年一緒にいる高良健吾は寺島しのぶにせがまれ「エサを与える」と気怠くのたまう。
そうさな甘やかだったセックスは、いつしかゴミ出しよりも面倒なものに変容する。いやぁ映画ってやっぱり夢あるなぁ(涙)
作家である寺島しのぶとトヨエツが性欲モンスターのように情事するなかで、妻の広末涼子はトヨエツの帰りを待っている。
ヒロスエははたして不憫だったのだろうか。
もしオレの妻がほかでセックスしていたらどう感じるだろうか。
「あなたは配偶者のこと愛してますか?」に愛してるって答えられない。「あなたは配偶者のこと愛してないですか?」に愛してないって答えられない。
そんな妻のセックスをオレはゆるせないだろうか。
悦楽してて狡いなとは思うだろう。けれど嫉妬に焼かれることはもうない。むしろ妻に”貸し”ができたと嬉しく思う。妻が罪悪感から優しく接してくれることも期待できるし、オレもほかでセックスしてもいい権利を有したと未来が少し晴れやかになるかもしれない。
夫婦にとってセックスって大事か。味のなくなったガムのような行為。要らなくなったと思っていた妻とのセックスを他の男がほしがったから、なんだか惜しくなっただけではないのか。
セックスなんて腰を振れば中学生でもできる。しかし配偶者と長年ともに暮らすことは絶望を寛容した夫婦にしか絶対できない。
妻と愛人との悦しいセックスも、やがて腐臭を放つような惨めなものになると知っている。夫婦は虚しい。不倫は虚しい。独りは虚しい。出家もきっと虚しい。
脳天の痺れるようなセックスの甘やかな悦しさは、風に吹かれて虚しい大地に帰っていく。何度も何度もイッたとか、何度も何度もイカせたとか、そんな蕩けた話は二束三文にもならない。
虚しいをなるべく視野に入れないために、汚れた台所の床を拭いたり、しょうもない花の写真をSNSにアップしたり、部下を叱ってその3倍褒めたりする。”虚しい”から1秒でも逃れたい。箱ティッシュとサランラップが切れて買いに行かなければいけない状態は、虚しい人間にとって最高の幸せだ。
映画の中で若者は”革命”をしていた。それを大人たちは眩しそうに見つめていた。虚しさつぶしに革命はうってつけだろう。
生まれてきてよかったと思えるほどの素晴らしいセックスは終わりの始まりだ。オレよ、セックスされてあわてるな。妻のセックスはオレの快楽を奪うわけではない。妻と愛人を退治することは、決してオレの幸せと相関していない。オレだって道にセックスが落ちていたら拾ってもいい。その女を抱き死んでもいいと思えるほどの絶頂の高みに昇っていき、そこから地面に叩き落され実際に死ぬような目に遭うことを厭わないなら、オレは世界中の女とセックスしてもいいのだ。
この映画ちょっと長いので途中寝てしまって、夢うつつの中でこんな思念が渦巻いていた。目を覚まして、相変わらず物分かりのいいヒロスエがアヒル口で佇んでいるのを観ながら気がついた。オレに妻いねーじゃん🐥
#あちらにいる鬼
#寺島しのぶ
#豊川悦司
#広末涼子
#瀬戸内寂聴
映画「ザリガニの鳴くところ」 湿地の沼で心を洗う
”湿地の少女”は野生だ。
だから彼女は植物や動物と同じように善悪の概念に縛られない。
法にも教育にも宗教にも無縁で生きてきた。
あったのは生きることに必死だったということ。
彼女には「生きることこそが最大の善」である。
彼女は、水に飛び込み、鳥の羽と貝を拾い、光を浴び、愛する男に吠えかかる。
生きることそのものが目的の湿地のナウシカ。
それにひきかえ我々は生きることをひどく難しくしている。
バーチャルに遊び、承認欲求に囚われ、生きるために生きる意味をほしがる。
生きることが目的の少女と、生きる目的がないと生きられない我々。
クズ男が自分のタネをまき散らしたい欲情
社会が異端を排除したいという暗い情熱
青年が彼女と添い遂げたいという健気さ
人権派弁護士の深い慈しみと優しさ
こうした人間の美醜すべてを、彼女の”生きるという業”が圧倒し、湿地の底に沈めてしまう。彼女は結局のところ、人間相手には誰にも心は許さなかったのだと思う。
この映画で生きることがずいぶんと苦手になってしまった我々の心は洗われただろうか。
湿地の沼のザリガニ臭い泥水でジャブジャブと洗われた心を見て、心洗われたいと思っているところで随分と彼女と隔絶していると途方に暮れ、今さらどうにもならない心を持て余している。
#ザリガニの鳴くところ
映画「窓辺にて」 膿んだ観客は光の中でたゆたう
この映画が東京国際映画祭の観客賞。
フフフフ。
これに共感するオーディエンス。
フフフフ。
膿んでるな。
相当、膿んでるな観客。
稲垣吾郎はじめ人物たちは愛おしくずっと観ていられそうなほど心地いいのだが、アレ待てよ、よく考えてみれば描かれているのはちょっとした”地獄”だ。
稲垣吾郎演じる妻の不倫に感情が湧きたたない男。
あと不倫している奴が4人、不倫に耐える女1人、世捨て人1人、変なカップル1組。
愛と生きてる意味を見失った人物たちを今泉監督の優しい光が包む。
愛と生きてる意味を失っていることから逃れるには、自分が自分であることを忘れるしかない。忘れるために現代人は何をする。たとえば労働、たとえばセックス、たとえばゲーム、たとえば犬の動画。しかしどれもが持続可能ではない。やがて「自分は愛も生きてる意味もない存在なのだ」と覚醒してしまう。
稲垣吾郎は衝動がない、酒もたばこもやらない、子どもがない、新しい小説は書かない、妻との結婚は続けない。
いつまで窓辺でパフェを食って平静の面持ちでいられるのだろう。あなたのように静かに離婚届をもらいに行ける人間は少しは生きやすいのでしょうか。決してそんなことはないよね。
愛と生きてる意味を失って伽藍洞のような人物たちは、ちょっと夏目漱石的な神経症的悩みに囚われていると感じるし、食と教養は十分でも頽廃に取りつかれた中世貴族のような熟れ腐った匂いも感じる。
それでも今泉監督の世界の切り取りは優美で、映画を「撮る」というより「奏でる」が似合う。
愛の不在を奏でる今泉世界の光と言葉の中で、”心を膿んだ観客”たちはしばしたゆとう。
地獄に出口がないからたゆたうしか成す術がなく、その揺りかごは今泉世界の奏でとやけに相性がいい。
#窓辺にて
#今泉力哉
#稲垣吾郎
#中村ゆり
#玉城ティナ
#若葉竜也
#志田未来
#倉悠貴
映画「RRR」 インドの覇権を確信する
「インド、やるじゃん!」は「インドくん、すごいなぁ♪」になり、やがて「イ、インドさん、なんかボクにできることある…」から「え、日本だよ、日本、知らないって、またまたぁ(涙)」と声が震えてくる。
インド映画「RRR」
ダンスとアクションのわんこそば、神と自然への畏怖、さすがインドの大群衆シーン、神話や説話を思わせる骨太なストーリーテリング。
堂々たる完全無欠の映画がここに見参である。筋肉モリモリ、髪の毛クログロ、笑顔ギラギラ。少し離れて!
「インド映画はすごい」というオレの言葉のなかに、それでもどこかでインドは途上国なのにといういやらしさがあったのだと思う。インダス文明とゼロとカレーのインドを見下すことがそもそも愚かなのだ。しかし人間というのは認めたくないのだ。あなたの方がすごいですよねということを。相対的に自分が下に下に墜落するのが立っていられないほど恐ろしいのだ。
映画終盤で憂鬱な気分を含みながらオレはつぶやく。
「次の覇権は間違いなくインドだ」
映画のことではない。
映画もそうだが、世界の覇権を握るのはインドだというイメージだ。根拠はこの映画だ。エンドロールでキャスト達が笑顔800兆%で踊る姿を見ているとそう確信する。ドングリ眼のちょび髭がご機嫌にダンシング。オメーら一体いつまでやってんだ、もう3時間超えてんぞ!
彼らの”細かいこと気にしない”という無神経さは、きっとこいつらはアメリカや中国をごぼう抜きにするという予感を揺るぎないものにさせる。
あまりのおもしろさにニコニコでこの映画を観ていたはずなのに、いつの間にか顔面麻痺してきた。
まるでスクールカーストのような思いにとらわれる。スポーツ万能でイケメンのインドくんが自己肯定感たっぷりで教室の中心に鎮座しており、アメリカくんや中国くんがその周りで「マジかよー」「ウケル」「ヤベー」とか言って盛り上がっている。ボク日本は誰とも目を合わせないように教室の隅で文庫本を読んでいるが、「人間失格」の内容は頭に入ってこない。インドくんが無意識に発している”マッチョさ”に耐えきれず消えてしまいたい。小学校のころはそこそこ人気者だったのにと世界を呪う。インドくんが女子をからかっている。女子たちは「ヤダー」と黄色い声をあげている。スカートの短いスイスちゃんまでインドくんに媚びている。ボクの足元にボールが転がってくる。「あいつ誰だっけ?」。ボクはギクリとする。「何言ってんだよ、日本だよ、日本」「あ、そっか。おい日本、ボールこっちに!」。ボクは身動きがとれない。「なにしてんだよ」「ボール投げてくれよ」「なにあれシカト♡」。自意識と劣等感が股間から液体となって溢れだす。ああああぁぁぁぁぁ。ボールを握りしめ、スイスちゃんの顔面めがけて至近距離から「このバイターーーーー」と投げつける。ボクは涙と鼻水とその他の液体でビショビショになりながらスイスちゃんに馬乗りになって「タイトルがアールアールアールって、タイトルがアールアールアールって、おかしいだろ、おかしいだろって言ってんだよぉぉ」と永世中立国である彼女の耳たぶにしゃぶりつき…
あ、映画がようやく終わったようです。3時間7分があっと言う間でした。というレビューをよく見かけます。バカ言え3時間超だぞ、いくら何でも”あっ”ってことはねえだろ、時間感覚どうかしてるぞ。はい、とても楽しかったです💃🕺💃
#RRR
#アールアールアール
#ラージャマウリ
#ラームチャラン
#アーリヤーバット
#アジャイデーヴガン
映画「アムステルダム」 大型倒産を刮目する
本作の製作費は8000万ドルかかっていて、興収惨敗で9700万ドルの赤字になるらしい💰
なんで製作費より赤字額が大きいのかはわからないが、なにか事情があるのだろう。
日本円で135億円(140円/ドル換算)の負債をかっ飛ばす”マッカチン映画”🙀
こんな大型倒産ムービーを見逃す手はないと2回観に行った。オレなら200万円の借金で首を吊るもんね。
で2回とも寝た。なるほど😎
「アニャ・テイラー・ジョイさえ見られれば内容なんてどうでもいいんだろ」
軽々に失敬なことを言わないでほしい。
なんにしても、なんかぼんやりした結果となってしまったようだ。
でも好きですよ、アメリカのアイロニー。
やりきれない絶望に出会ったときは、皮肉を言って笑うんだと教えてくれたのはアメリカ映画だったと思う。『ガープの世界』とか。
本作で描かれているのは帰還兵が失ったもの、アメリカ社会の闇、帰らない青春の痛みだ。そうした負の現代史に笑いを編み込むアメリカの矜持。
アムステルダム氏🥸「やばい、9700万ドルの赤字だよ」
わたし🐸「オレがアニャ見たさに観てなかったら9700万2ドルになるところだったな」
アムステルダム氏🥸「Kiss my ass」
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映画「わたしのお母さん」 映画の観客でよかった
映画が終わったあと「おもしろかったですねぇ」と見知らぬ観客に話しかけたかった。
こんなにいい作品を観たのになんでそれを喜び合うこともせず、独りで帰らなきゃいけないんだと悲しかった。
娘を演じた井上真央。その娘がどうしても好きになれない母が石田えり。それから脚本・監督の杉田真一氏。
3人のことをずっと忘れないだろう。
井上真央。井上真央。井上真央。
井上真央の無言ショットに彩られた映画。
この無言からなにを受け取ればいいのか。真央ちゃんの”感情”か。いや真央ちゃんはビー玉のような目をして感情すら漂わせていない。彼女がタバコを吸う佇まいもタバコを吸う以上でも以下でもない。見事だ。スクリーンを観ていてワクワクする。
無言から受け取れるのは”関係”だ。物言わぬ真央ちゃんのショットを見つめていると母・石田えりとの隔絶した”関係”が見えてくる。
「関係が見える」
映画だァという充足感が湧き上がってくる。これは説明でも、言葉でも、ストーリーでもない正真正銘の映画だ。映画の観客であったことの喜びがあふれてくる。
オレは愛ってものがわからなくて、もっと言うとそんなものないんじゃないかと思っていて、もしあるとするならば親から子に対してだけではないかと考えている。でも真央ちゃんは親からの愛が感じられない。親は大事にしなければとか、親への感謝とか、そういう理屈はわかっている。でも親の愛をうまく感じられず、だから親に優しくすることもできない。
酔いつぶれて玄関に横たわる母のかたわらで添い寝する娘。パジャマ一枚で板の間は冷たかろう。彼女は眠る母の顔を黙って見つめている。
この風景になんと名前をつけよう。"愛"と呼ぶには娘の瞳は頼りなく、ただ"母娘"と呼ぶだけでは何かはかない。名状しがたいぼんやりした関係しか持ちえないかもしれないが、それでも生きろ生きろと客席から人物たちに賛歌を送りたくなる。
映画終盤の展開はうますぎて唸った。母娘の衝突を頂点としてなんらかの和解によって一条の光が差す…こんな展開をぼんやり想像していたオレの頭上をやすやすと超えていった。
真央ちゃんのラスト。演技の加減はあれがいい。あれ以上でも、あれ以下でもない。さすが井上真央。やっとだね。もう遅いよ。でもしょうがないよね。抱きしめていなよ。匂いがするかい。だれも悪くないよ。
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