映画館に帰ります。

暗がりで身を沈めてスクリーンを見つめること。何かを考えたり、何も考えなかったり、何かを思い出したり、途中でトイレに行ったり。現実を生きるために映画館はいつもミカタでいてくれます。作品内容の一部にふれることもあります。みなさんの映画を観たご感想も楽しみにしております。

映画「君だけが知らない」 買いすぎた歓心を売ってしまいたい


「空気を読む」という優しく卑しい行為は、ときにひどく相手をイラつかせる。

私は気を使われているのか、こいつは私の気持ちを汲めるとでも思っているのか、ずいぶんナメられたものだなと対象者を不愉快にさせる。

せっかく自分を殺して空気を読んだというのに悲しいことだ。

映画「君だけが知らない」

”観客のために”つくられた映画だ。
”観客のために”スリルと緊張をこしらえてある。

”観客のために”が伝わってしまった観客はとても居心地が悪い。

ねえ、そんなことよりさ、こっちのことは一旦忘れてよ。あなたは何がつくりたいの。私なんかがいてもいなくてもそれでもあなたがどうしても抑えられない衝動って何。私が見たいのはそれなの。

それを観て「おー--」って驚いたり、「わかるー--」って共感したり、「はぁー--」って憤慨したりしたいの。

”観客のために”っていうあなたの優しさはよくわかるけど、そればかりじゃ私も苦しいの。”観客のために”ばかりじゃあなたはどうするの、どこにいくの、だれになるの。”観客のために”はあとで少し伝われば十分なの。

スリードの塊のような脚本、緊張を誘うために躍起な音楽、ギミックとしての記憶喪失設定。

ほら出来上がったのは昼ドラか火サスみたいな味がするよ。あなたも私もこんなものが食べたかったんじゃないよね。あとさ記憶喪失って映画でしか遭遇しないよね。

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悲しいかな自分の中にも「空気を読む」「~のために」という気質がふんだんにある。私を知る人などいないカフェや道路や電車のなかでさえ、見知らぬ誰かの空気を読んでいる。見知らぬ誰かのためにことさら丁寧にカップを戻したり、背筋をしゃんと伸ばして歩いたり、エスカレーターで絶対に歩かなかったりする。私は一体誰の空気を読んでいるのか。誰のためにこんな芝居めいた生き方をしているのか。自分自身に蔑まれても優しく卑しい自分は「歓心を買う」ことを今日もやめられないでいる。

記憶喪失になって、誰かと入れ代わって、タイムリープして、こんな自分を捨てられないものか。映画館では日常茶飯事だが、今だ私はこれらに遭遇したことがない。

#君だけが知らない
#ソイェジ
#キムガンウ

映画「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」 彼女たちの涙にこそある

肉親や仲間の命を奪われた悲しみは、憎悪に変じる。

憎悪を清算するのに、相手にも同等の苦しみを求める。


殺されたから殺す。
死は死で償って当然だ。

しかし人間が恩讐の彼方に武器を置くことができたら、返報を放棄することができたら。

できたところで、憎しみも不条理も消えはしない。

一粒も消えない。
まったく許すことはできない。
慟哭はやまない。

慟哭のままに、しかし相手の死を放棄すること。

日米で、そして中国で、この映画が多くの方に支持され、”死の返報”について勇気ある進展をしてほしいと願う。

小国ワカンダが先進国である理由が、ヴィブラニウムやブラックパンサーといったスーパーパワーの所有にあるのではなく、憎悪と武器を置いた彼女たちの涙にこそあると思いたい。

#ブラックパンサー
#ブラックパンサーワカンダフォーエバー

映画「劇場版 荒野に希望の灯をともす」 裏切り返さないことが平和

白衣を脱いでショベルカーに乗り、アフガニスタンに水路と小麦をつくった中村医師。

彼が死んだとき、日本の為政者は「テロを断じて許すことはできない」と言った。

中村医師なら"許す"と言ったと思う。

氏は暴力の上塗りを拒否し、大義があっても戦闘に与しなかった。

平和は戦争よりもどかしく、死も頻発し、裏切られても裏切りかえさない不条理な精神を要する。

『信頼は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れるのである。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実なのである』

中村医師は”許す”と言ったろう。そうでなければ氏の人生と辻褄が合わない。そうイメージしなければ氏にあまりに失礼だ。

銃と核で解決する。

それもいいかもしれない。

平和はナイーヴな作業ではないと中村医師はその人生で見せてくれた。

平和もその過程でたくさんの人が死に、うんと時間がかかり、裏切り返さないという鬼神の精神性が求められる。

戦争で殺されるのも、平和を築こうとして殺されるのもどちらも同じ死だ。

好きな方でアプローチすればいい。

『彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。同じヒトでありながら、この断絶は何であろう。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。』

#中村哲
#荒野に希望の灯をともす
#映画好きと繋がりたい

映画「原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち」 変なとこに落ちてた希望



こんなに清々しく映画館をあとにするとは思わなかった。

だいたい、ドキュメンタリー映画って絶望必至みたいなもんだ、だいたい。

しかも本作の題材は”脱原発”💩

国策である原発に立ち向かってボロボロのボロンボロンになる人たちを見せられ”どよー-ん”ってなって、「嗚呼この国棄てたい」って自分もオンボロボロボロになると思ってた。

それがこの映画に登場する人たちは、瞳が明るくて強い🤩

裁判長は、生命が大事だからいくら原発がエネルギーコストうんぬん言っても、耐震性において安全でないなら「ダメゼッタイ♡」と明快。貿易赤字?CO2?「んなことより事故ったら滅びんぞ全員」と。

弁護士のおっさんも強力だ。いつもピンクや黄色のパステルカラージャケット着てる。そんな奴は強いに決まってる。「オレさぁバブル裁判でいっぱい儲けたけど、なんかぁ飽きてきたからいっちょ脱原発裁判でもやるぜ」だって🥸

これだけでも相当気持ちいい。

まあ裁判は最終的には最高裁で「原発差し止め無効」とかにされるんだろうけど、こんなステキなふたりが映画で見られただけでもよかったよかった♪

ま結局さ、脱原発がどんなに正しくても国策だからアレなんでしょ。福島を見ても原発やめないほど人間は悪魔なんだから、とオレは思う。

ところがこの映画まだ元気なキャラが登場する💥

着々と「農営型太陽光」を進めてる人たちが登場してくる。

畑やりながら太陽光やれて一石二鳥作戦。シャインマスカット&電力売ってでWインカム!これを進めていけば原発要らなくなるかもよって🎉

しかもブレーンには京大で核を学んで仕事で原発やってやっぱ原発事業は腐ってるわってなって環境エネルギー研究している人がついてる。「太陽光のコストはバカ下がりだからイケるぜ」って😜

農家のひとたち葡萄よりもシャインな瞳✨

すげーなー。

判決内容や弁護手腕や太陽光がすげーのか正しいのか、そんなことはオラ知らねえ。

ただこの人たちの強くて明るい瞳がすげー。

変なところに希望が落ちてた。

たくさんの犠牲者を出した悲しいはずの大地に希望が落ちてた。

#原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち
#映画好きと繋がりたい

小説「アタラクシア」金原ひとみ 最終ページの景色

欺瞞に苦しむ人物たちのこの小説を読んでいるとき、その時間は救われていた。

生きることにのたうつ彼らと過ごすのが愛おしかった。

めくって、最後のページを目にしたとき。

それは新しい段落からはじまり、一切の改行がなく、そして左に気持ちのいい大きな余白がある。

何が書かれているかはまだ読む前だったが、そのページの景色に感動した。

この本の中では今も人物たちが苦しんでいる。

せめて人物たちを慰撫するように最後のページの文字の並びと空白は清々しかった。


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「由依に会いたいと言われれば嬉しい。でも自分の感情に自分が蹂躙されていく恐怖がぬぐえない。私に蹂躙された自分は酸に溶かされるように呆気なく一瞬でなくなり、後には何も残らないような気がするのだ。」

「確かなものに触れたかった。いつも同じ時間に明かりが灯る灯台のような、必ず沈んでは昇る太陽のような、確実な周期でなくとも必ず寒さの後には暑さが暑さの後には寒さがやってくる四季のような、雲がなければ必ず見える北斗七星のような、投棄された後ずっと変わらず存在し続ける腐食しないプラスチックゴミのような、そういう確実なものに触れたかった。人はどうしてこんなにも不確実性の塊なんだろう。確かなものが欲しくて言葉や温もりや思考を積み重ねても一瞬で爆発して放射線状に散り散りになってしまう。だから私は信じられない。自分も自分の人生も記憶も明日も今日もこれから起こることも。何一つ信じられないそして今に縋る。」

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息ができないようなこの世界で生きるには、愛はない、幸はない、何もないと何度でも自分に言い聞かせることだ。そうすれば息くらいはできるようになるかもしれない。

#金原ひとみ
#アタラクシア
#中江有里
#本
#書籍

映画「シャイニー・シュリンプス 世界に羽ばたけ」 カラスたちは同性愛にならないのか

リベラルを自認する身としては本作を鑑賞して「多様性バンザイ!」と快哉を叫ぶ予定だった。

しかし、おそらくロシアであろう矯正施設の責任者が”自然の摂理”に則って性的マイノリティを治療すると語った場面あたりからなんだか考え込んでしまった。

”自然の摂理”

実際ロシアではゲイ・プロパガンダ禁止法があり児童に悪影響を及ぼすとしてゲイ・プライド・マーチなどの権利擁護運動が禁じられている。2013年にロシア南部で同性愛を告白した23歳の男性が複数人から暴行を受け殺害された。またチェチェンにおいてLGBTQの迫害が実行されている。

男と女がいて、子どもが生まれる。その子どもが異性と結ばれ、また子どもが生まれる。

しかし同性愛は繁殖できない。

杉田水脈はそれを同性カップルは”生産性がない”と表現した。

オレが為政者ならどうするか。

オレ(為政者)の役割が国を繫栄させることならば、繁殖・安全・豊かさを死守しなければならない。

ならば繁殖に協力できない同性愛者には税金を使いたくないのが本音だろう。

しかしまあいろんな人間がいるのも確かで、マイノリティにも生きやすい世の中にしたいくらいのことは政治家のプライドとして思うだろう。

「いいよ、いいよ、いろんな性的指向や生き方があって、”みんな違ってみんないい”だよね。」

国が豊かで同性愛者がごく少数なうちはそう言って微笑んでいられるだろう。

しかし、国民の2割が同性愛で、そのほかに3割が生涯未婚で繁殖しないとなったらどうするだろう。

生涯未婚に対しては婚姻しやすい政治的施策を打つだろうか。

同性愛に対してはどうするのか。

放任するか。  

同性愛者を増加させない政策を打つか。

わかってる。こんなナイーヴさでは為政者になってはいけない。

個人に好き勝手やられたら国家は破滅だと為政者は考える。国家繁栄を担う為政者が強権的になるのは構造的メカニズムだ。

オレも子どもつくらないから繁殖に背を向けている”生産性のない”人間だ。

国家から見ればマメだ。

よく働き(勤労の義務)、子どもを産み育て(教育を受けさせる義務)、税金を収める(納税の義務)のが純正品の方の国民。

それを連綿と回すことでしか人間世界は保たれない。

カブトムシやカラスたちは、同性愛になったり、セックスや情愛にうんざりしていないのだろうか。

自然の摂理とはなんだ。

同性を好きになる心の動きも自然だし、結婚したくないのも子どもをつくる気が起きないのも自然ではないのだろうか。

個人の自由は、つまりは人間世界を蝕むのだろうか。

いろんなマイノリティも受容して共生するところが人間の面目躍如、他の生物と違うところだと信じたい。

しかし受容できないスピードでなにがマイノリティでなにがマジョリティなのか入り組み始めている。

なんだか人間ってやつはうまくない。

カブトムシやカラスがきっと奇異な目で見ているんだろう。それとも気の毒だと思ってくれているのだろうか。

私たち人間は全体で朽ちていく方向にしずしずと行進しているイメージが浮かぶ。

先ほど極端な例として生涯未婚率を3割と書いたが、直近の男性生涯未婚率は28%だった。

#シャイニーシュリンプス
#シャイニーシュリンプス世界に羽ばたけ
#映画好きと繋がりたい
#ゲイプロパガンダ禁止法

映画「ブラックパンサー」 1個のパンの食い方

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」公開にあたり、2018年公開の「ブラックパンサー」が劇場で上映中。

「危機に瀕したとき、賢者は橋をかけ、愚者は壁を造る。」

ラストで、ワカンダ国王でありブラックパンサーであるティ・チャラ(故チャドウィック・ボーズマン)は、国連で演説し、人類共生を唱える。

ワカンダ国の”鎖国”から人類共生を決断するまでを描いているのが本作であるとも言える。富と安全を自国で囲うのではなく、世界全体で分かち合おうと踏み出す。

尊属殺人さえ犯す人間が、相も変わらず戦争をしている人間が、肌の違う人間とパンを分け合うことができるのか。1個のパンしかない。3人で食うには到底足りない。それでも分け合って皆で餓死するのか。殺し合って独りが食うのか。別の知恵でも浮かぶのか。

もし人類がティ・チャラの決断をしたらきっと失敗するだろう。人間ばかりがそんな高等で優しく共感性の高い動物であるはずがない。カマキリのように共食いすら辞さないのが人間だろう。

しかし失敗がなんだというのか。すでに人間はいろいろ失敗している。分かち合うということを血みどろで模索して一敗地に塗れるのが人間であるならば、人間であることに誇りを持って滅んでいける気がする。滅びの日まで共生に挑む愚かさがあってほしいと願う。

どうせ生きるは滅びるまでの暇つぶしなのだ。なにをして暇をつぶすかは好みの問題だ。人間は好ましいことを好んでほしい。

11月3日、国連の自由権規約委員会は、入管施設で2017~21年に収容者3人が死亡したことなどに懸念を示し、日本政府に拘束下にある人たちが適切な法的保護を受けられるよう求めた。

「牛久」や「マイスモールランド」といった映画作品から、日本の”分かち合い”がよくわかる。この国は分かち合うことに強烈なほど怯え切っている。外国人は赤鬼だ。小さな体の島人たちは震えながら、これは人間ではなく鬼だから、われわれに危害を加える鬼だからと言って皆で取り囲んで嬲り殺しにする。

移民も難民も拒んでないですと口では言って殺すほど拒んでいる。ずっとそういう国家で行くのだろうか。かっこいい。

原作漫画でブラックパンサーというキャラクターは1966年に登場している。映画はまず1992年のカリフォルニア州オークランドを舞台にはじまるが、オークランドは監督ライアン・クーグラーの出身地であり、人口の30%以上をアフリカ系黒人が占め、ハリス副大統領の出生地で、1966年に”ブラックパンサー党”が設立された場所だ。

ブラックパンサー党は黒人差別廃止を標榜した武装組織で、特に警官による黒人への暴力を抑えるために白人警官の追尾や監視を実行した。全米で40もの支部に拡大したブラックパンサー党はFBI長官から「国家安全保障上の脅威」と名指しされる。急進的な活動や社会福祉的な活動を実践し、国家からの攻撃や内部分裂の誘発もあり、最終的には解党にいたる。



歴代世界興収14位、歴代全米興収6位。アカデミー賞は7部門でノミネートされ、ヒーロー映画での作品賞ノミネートは初。3部門でオスカー獲得。黒人監督(ライアン・クーグラー)による黒人ヒーローの活躍を描いた新機軸として注目を浴びる。

#ブラックパンサー
#ライアンクーグラー
#マイスモールランド
#牛久
#映画好きと繋がりたい